「論理は真理を保存するか」(秋葉研介)
「科学哲学」27(1994)pp.69-82. 某氏の日記経由、web上で取得可能(いい時代になったものです)。
本論文では、推論主義の見地から論理的推論にアプローチする。すなわち、「良き論理とは演繹的保存拡大の条件を満たす論理であり、良き推論とはそのような論理内の推論である」。そして、我々が古典論理を使用するのは、「使い勝手が良い」からである。また、古典論理が「真理保存的」であると見なされるのは、使い勝手が良いために我々が古典論理をよく使うため、「真理保存的である」と考えると便利だからだ、と結論する。
非常に明快で力強い論文なのですが、明快すぎる嫌いがありあます。すなわち、議論を単純にしすぎてしまい、いくつか重要な点で過剰殺戮を行っているようにも思えます。たとえば、本論文では、上記の引用からも分かるとおり、自然演繹チックな方法で証明論的に形式化されていることが、論理としての最低条件であると言っているようにも見えます。しかし、非古典論理では、この条件を満たさない多くの「論理」と呼ばれる体系があります。たとえば、(述語論理になりますが)Lukasieiwcz無限値述語論理は、通常は真理関数(モデル)から定義され、再帰的に公理化不可能であることが知られています(つまり無限的なルールを使わないと推論体系として形式化できません)。当然、自然演繹スタイルの体系による形式化は(くどいようですが無限的ルールを使用しない限り)不可能です。
- これを「論理」と呼ぶことにすると、「『良い論理』といっても結局何でもありか」という批判に直面するように思えます。だから、無限的ルールの使用を正当化し、どこからが許されないルールかを明確化する必要があるのではないでしょうか。
- これを「論理」と呼ばないこととすると、哲学者の都合によって数理論理学の重要な部分を切り捨てることになり、過剰殺戮とよばれても仕方がないように思えます。
あと、この点は私の理解不足に起因するのだと思いますが、モデル論的意味論を退け証明論的意味論を採用する議論(p.73)において、氏は「モデル論的意味論は無限後退に陥る」と非難しています。もちろん、氏が説明しているように、「対象言語の & の解釈をメタ言語の 『かつ』 によって解釈する」と言うタルスキの真理定義のプロセスは、そういわれてもやむを得ないのかもしれません。しかし、ここではモデル論的意味論の話ですし、例えば A&Bの真理値を max{|A|, |B|} と真理関数によって表現する、標準的なモデルにおける真理値の決定プロセスのどこが無限後退なのか、分かりませんでした*1。
ついでに、真理概念を拡張して非古典論理を真理を保存するものとして解釈し直そう、という本論文と正反対*2の作業を、Beall & Restall が提唱しています。この話題は、決して決着がついているわけではなく、まだまだ検討が必要なように思えます。
- 作者: J. C. Beall,Greg Restall
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