"pluralism in logic" (Hartly Field)
The Review of Symbolic Logic (2009), 2:342-359。こちらから入手可能。重要な論文なんだと思います。もう一回読み直さないと。
著者は、非古典論理に関する論理的複数主義*1を検討し、DummettやBeal-Restallらの複数主義を拒否します。そして論理に関する複数主義としては自明なもの(normに関する複数主義)しか維持し得ないと結論します。
- まず、「つまらない」複数主義がある。例えば「同一性規則は論理規則か」「高階論理は論理か」というような、まさしく個別の規則の地位に関する意見の違いのことである。この話はつまらないので略。
- 次に「もっと面白い」複数主義として、「古典論理の代替物となる『全ての面でより正しい』論理」を提案する立場(Dummettが直観主義論理に、Putnamが量子論理についてやったように)がある。この立場は、歴史的には、カルナップの直観主義論理についての議論に端を発する。
- ここでのポイントは、彼らがそれらの非古典論理を "all-pourpose logic" として提示していることである。というのも、古典論理を支持する人間も、部分的な目的のために直観主義論理を使用する(例えば「数学における心的構成を表現する」とか「計算機の挙動を表現する」とかいう目的のために)ことが可能だからである。
- しかし、Dummettらと古典論理支持者の対立は「真正」(genuie)なものではない。というのも、カルナップ流に「異なるall-pourpose logic において、論理結合子は異なる意味を持つ」というためには、異なる論理体系における論理結合子の意味を比較しなければならないが、大体、「論理結合子の意味」という言葉自体が曖昧すぎる。
- さて、最近はやっているのが Beal-Restallの論理的複数主義である。
- これは「論理は真理保存的である(どのケースにおいてもXが真であれば、Xは論理的に真である)」とみなすが、異なる論理体系の主張者同士の意見の違いは「どのようなケースがありうるか」についての意見の違いによる*2と考える。この枠組みにおいて、古典論理の支持者と直観主義者は、論理結合子の意味については意見は一致している(各ケースにおいて真理関数的)が、(何をケースと見なすかの意見が異なっているため)論理的帰結関係に関して意見が異なっていると見なすことが出来る。
- この複数主義に関する反論は何種類かあるが、一番重要な反論(っぽいもの)は、「論理を真理保存的と見なすことは出来ない」というものであるだろう。例えば、modus ponens を考えてみよう。modus ponensが真理保存的と見なすためには、真理述語 T(x) に関して、 T("A") & T("A→B") →T("B") (*) が任意のA,Bについて成立する必要がある。しかし、カリーのパラドックスにより、modus ponensと (*) の両方無条件に仮定することは(いかなる論理においても)できない*3!従って、多くの論理を真理保存的であると見なすことは出来ない。
- 著者が認める複数主義は「normに関する複数主義」である。
- 著者は、論理的推論はnormativityの問題である(我々の信念の度合いに関し、normを満たす推論が論理的推論である)と考える。当然、「最もよい唯一なnorm」なんてものは存在しないと思われるため、目的や状況に応じ、異なる norm が並立するはずである。その意味で、多くの異なる論理体系が並立することはありそうである。
- しかし、この結論、当たり前すぎて何とも…と著者はexcuseする。
個人的な感想ですが、「論理が真理保存的である」という内容を、真理述語に関する推論に読み替えるというのは、非常に驚くべき議論だと思います*4。なんですが、どれくらいの人が同意するんだろうか。
(内容は後で追加します)