"Structuralism and the Concept of Set" (Charles Parsons)

Modality, Morality, and Belief: Essays in Honor of Ruth Barcan Marcus (Cambridge Univ. Press) pp.74-91。全文がgoogleブック検索 (ここ)で入手可能。便利な時代になったものだ。

背景説明:構造主義の弱点としての集合論

数学的対象とは何で、どういう意味で存在しているのか、を考えるのは数学の哲学での大きな問題で、多くの学説があります。例えば有名なものとしてプラトニズム(数学的対象は人間とは独立に存在する)がありますが、人間がどのようなメカニズムで数学的対象を知覚できるのか、説明できた試しがありません。おそらく、現代の数学者から一番支持を集めそうなのは構造主義 (Structuralism) の立場でしょう。彼らは、数学的対象への指示はある数学的構造という特定の文脈の中で行われるものであり、数学的対象はその構造の中で原始述語や原始関係によって表現される性質以外の性質は持っていないことを主張します。例えば、自然数の場合、自然数イデアとして存在するとか心的に構成されるとかいわずに、自然数論の公理系によって定義された性質だけを持つ、というものです。
さて、この立場で最大の問題となるのは、集合論の扱いです。構造主義においてモデルの領域の元となる対象は、伝統的に、集合論で存在が保証される集合を使用します(例えば算術のモデルの構成は、まず集合論の方でω個の集合を用意し、その無限個の元の上で算術の公理を満たすように構造を定義する)。また、構造主義においては、複数の数学的構造の間でお互いに同型であるかどうかが比較できないといけません。その比較ための通常の枠組み(metatheory)は、通常は集合論です(高階論理に訴えることもあります)。つまり、構造主義においては数学的対象は集合論によって存在を保証され、そして集合論によって構造を云々できるわけです。
では、肝心の集合論において、集合とはどのような意味で存在しているのか。集合論の公理を満たすに足るだけの数学的対象(集合)が存在し、公理を満たす構造が存在することを誰が、どのような体系が保証してくれるのか。ZFは、その領域にあまりに多くの純粋に抽象的な数学的対象を含むため、それらがどのような意味で存在しているのかを解釈するのがとても難しい分野です。で、その領域が何らかの「実在」で構成されていることを認めてしまうと、集合論に関しては構造主義的見方を断念することにつながり、構造主義はその根幹において無力だということになってしまいます。もちろん、構造主義においては集合論もある公理系によって定められたという構造の一つのはずであり、集合論について「我々の『集合』に関する直観なしでは集合とは何かを説明できない」なんて言い方を採用してしまえば、これもまた構造主義の放棄です。

レビュー:ZFの公理についてされてきた説明の構造主義の観点からの分析

集合論、特にその公理の正当化とその説明に関して、これまで多くの人が語ってきました。という訳で、この論文では、ZFの公理はどのように説明されてきたかを分析し、構造主義と矛盾するものがないか検証しています。
通常、ZFの集合概念は「反復的集合観」の一言で済ませられることが多いのですが、しかし決してそんな単純な話ではありません。反復的集合観では、集合は

  • それぞれのステージ(段階)で、
  • その段階までにすでに構成された集合を集めて、新たに形成(form)される

と考えられますが、最初の突っ込みどころは「形成される」って、誰に? 我々人間に? 有限集合ならともかく、人間に無限個の要素を集めて集合を「形成する」できるのか? というところでしょうか。結局、この手の説明は正当化として成功しているとは言いがたく、文字通りに受けとれない、単なるメタファーであることになります。

  1. 具体的な検討を始める前に、集合論において重要なのが、公理の事後的(a posteori)な正当化の大切さです(とくに巨大基数論関係で多く使われます)。
    • つまり「この公理を仮定すると、ある分野における多くの面白い現象が、この公理によって統合できる」ということで、例としてゲームの決定性に関する決定性公理(the Axiom of Determinacy)などでしょう。なぜADが受け入れられ、構成性公理(V=L)が受け入れられなかったのか理由を考えてみると示唆的です。
    • このような結論の豊かさによって前提の正当性を判断する態度は、全体論的(holisitic)なアプローチともいえますが、一方で構造主義集合論との関係という問題からは遠くはなれていることも確かです。
  2. ペアリング公理 (the axiom of pairing)
    • 量化子に関して、通常量化の他に、「複数量化」(plural quantification)とよばれるアイディアがあります。通常 ∃x P(x) は「P(a)となる一つのaが存在する」と英語で言う名詞の単数形に対応するのに対して、複数量化 ∃' x P(x) は「p(a)となる "aたち(a's)" が存在する」と、英語で言う名詞の複数形に対応します。この「aたち」が集合サイズであれば、もちろん複数量化も単数量化も集合論上では変化がありません。真に問題となるのはそういう a がプロパー・クラスのサイズで存在する場合で、複数量化子がある場合プロパー・クラスが存在するのと同じことが言えることが知られています(Boolosによる)。ちなみに、複数量化のアイディアはカントールまでさかのぼることができるそうです。
    • ZFの公理において、この複数量化のアイディアに対応するのが、ペアリングの公理で、真の意味で「任意の対象の集まりは集合である」というアイディアを表現しています。ペアの構成要素 a,b はペア {a,b}に先立って存在し、任意のa,b に関してその集まりが集合として存在を保証されます。というわけで、この公理はZF内の一番メレオロジー的(部分-全体関係を原始概念とする)な面を持つと言えます。David Lewisは実際に、メレオロジーの特殊な形がZFである、と主張しています。
    • しかし、本当にメレオロジー的に視点でのみ集合論を分析するべきかは問題です。ZFの集合概念はもちろんメレオロジー的概念以外の多くのものを含んでいるようにも思えます。例えば、現代の集合論研究者にとって、「集合とは樹(tree)である」(集合は樹状のデータ構造である)というのが一番実感を持たれる理解ではないかと思います(そしてこれは非常に構造主義に親和的なものの見方です)。
  3. 置換公理 (the axiom of replacement)
    • これは冪公理(the power set axiom)と並んで直感的な説明が難しい公理の一つです。Shoenfieldがやっているような反復的集合観からの説明は折り合いが悪く、size limitation theory からの説明が一番相性が良いと思われます(って、size limitation theoryはまさしく「プロパー・クラスへの全射が存在するような『対象の集まり』は集合ではない」という主張ですから、この公理の対偶とも言え、言われてみればそのままその通りという気もします)。
    • limitation of size こそprularityとして導入された「対象の集まり」(クラス)と集合を分離する規定であり、この公理はメレオロジー的視点との違いという点でも、重要としか言いようがない役割を果たしています。
  4. 冪公理 (the power set axiom)
    • この公理がないと非可算集合が存在することをZFで証明できない訳で、もちろん重大な公理ですが、反復的集合観では直感的説明が難しいです。・・・というか、反復的集合観こそ冪公理を必要とする(任意のステージで、次のステージを形成するのは冪操作)わけです。
    • どちらかというと、この公理はもっと形而上学的な意図:十全性(plentitude)の要求に根ざしているように思えます。これは、「存在しうるものは存在する」という原理で、これによって、(反復的集合観における)任意のステージ S において、集合 a の存在しうる部分集合はすべて存在し、そして次のステージではそれらの集まり Power(a) も存在しうるために存在しうる、としか説明のしようがない、と言う訳です。
    • ではなぜ「順序数全体のクラスは十全性によって集合になる」とか言わないのか?やはり、本質的な部分で、この正当化は事後的なものである(順序数全体の集合の存在を認めてしまうと矛盾が起こるので認めない)と認めざるを得ないようです。冪公理の受容は歴史的な理由、すなわち集合論において解析学を形式化するため、実数のなす連続体を集合として扱いたかったということによります。そして一度そのことを受けいれてしまえば、冪公理が集合構成の原理の一つとして一般化されていくことは避けられないものでした。しかし、これは決して必然的な道という訳ではないのです。

というわけで、いくつかのZFの公理についてその説明を検討してきました。どれも「集合に関する直観」に訴えるようなものではなかったため、構造主義と矛盾はしないものであると思われます(が、もちろん、構造主義が正しいことを示す分析結果が出た訳でもありません)。

個人的感想

いや、興味深く読んだのですが、存在者の数をアホみたいに増やす原因となるという点で重要な役割を果たす、冪公理と巨大基数関連公理の説明を「事後的な正当化」の一言で済ませてしまうのはいかがなものかと・・・でも、確かにそれ以外言いようがなさそうだよなぁ。とにかく、事後的正当化の果たす役割の重要さこそ、数学の特色の一つと言っていいのかもしれません。