「クラスの概念と部分ー全体関係」(戸田山和久)

名古屋大学教養部紀要 A (人文科学・社会科学)第37号(平成5年1月)p.1-27. デヴィッド・ルイスの、集合論をメレオロジーの特殊な形として分析しようという "Parts and classes" の主張を分析する。K氏経由でもらったS氏のこの問題を扱った論文がとても面白かったので、では次をと参考文献リストにあったこの論文に白羽の矢をたてたのですが、入手が困難だったのでN君に泣きついて大学図書館でコピーをとってもらいました(申し訳ないです)。
氏は、ルイスの試みを(存在者を減らすなどといった存在論的目的ではなく)集合論の基本概念や基本操作を、クラスや部分ー全体関係といった親しみやすい概念や操作に置き換えることによって明確化し分析する試みだったと解釈した上で、その試みは失敗であり、結局集合論という難しいものを、別の難しいもの(クラスの fusionとかsingltonとは何かといった問題や、到達不可能基数個のsingltonを含むクラスの世界)で置き換えただけだ、と結論しています。
よくまとまった論文ですが、この論文で一番面白かったのは脚注でした。特に

私は、集合論の大部分をmereologyとして再解釈するというルイスのプログラム自体を批判するつもりはない。この再解釈は可能だし、おそらく実り豊かなものだろう。私が疑問視しているのは、このプログラムの哲学的意義である。

で始まる脚注29(p.26)が示唆的です。私個人としては、部分構造論理上の集合論や外延性といった問題との関係で、集合論のメレオロジーの視点からの分析という問題には非常に興味があるのですが、一方で、そんなに「実り豊か」なのかという疑問もあります。つまり、メレオロジーの視点から、集合論の複雑な構造をちゃんと捉えることができるのでしょうか。ちょっと考えた限りでは、なかなか難しいようです(どなたか、いい論点を思いついた方がおられましたら、お教えください)。