「藤本健太郎氏講演会のお知らせ」

logic-mlより転載。日本でこういう話を聞く機会はほとんどないと思われますので、関西圏在住の、論理学・哲学関係の方は、是非ご出席ください。私も行きたかった…。

皆様

来る9月2日、神戸大学工学研究科新井プロジェクトにおきまして、藤本健太郎氏(と佐藤憲太郎氏)の講演会を行います。藤本氏は、Stanford 大学在学中 Feferman や Mints らの薫陶を受け、現在は Oxford 大学に在籍して、公理的真理論を研究されています(詳細は下記の藤本氏の略歴を参照下さい)。
今回の講演は、Jaeger 及び Strahm らとの議論も通じて氏が研究されている、真理理論の順序数解析がテーマです。関係する分野だけでも証明論、数学の哲学、真理理論など多岐に渡りますが、これら分野の方だけでなく多くの方のご来場をお待ちいたしております。

  • 日時:9月2日(水)午後3時より
  • 場所:神戸大学工学研究科新井プロジェクト

プログラム:

  • 15:00-15:55 佐藤憲太郎 「集合論の二重人格性」
  • 16:00-16:55 藤本健太郎 「自己適用可能な真理の超限反復と自律的反復について」

講演の概要は以下をご覧ください。
梗概:

佐藤憲太郎「集合論の二重人格性」

集合論には「数学をその中で展開する基礎」(従って独立性証明等の超数学的議論に有用)という側面と、(群構造を研究する為の群論と同様の意味での)「集合という数学的構造を研究する基盤」という側面とがある。この二つの側面のいわば「同居」が集合論の一つの魅力であったのだが、当然ながらこれらはアプリオリに一致するものではない。ところが、集合論の公理として何が採用されるべきかという議論において、この両者を混同した議論が数多く見られる。本講演では、この二つの側面は明確に異なり、むしろ相反するものであることを、話者による技術的結果を交えながら論じたい。
第一の「数学の基礎」の観点からは、正則性公理は拒否されるべきである。通常の数学の定理(たとえば線型空間の基底の存在と選択公理の同値)が正則性公理を必要とする場合、その旨が必ず定理の言明に注記されるという事実は、正則性公理が集合論乃至論理学者以外には受入れにくいことを示している。実際、この公理は「数学の基礎」たる集合論に含まれている訳ではなく、たとえ独立性等の超数学的結果の証明に必要であっても、ジェネリックフィルタの存在等と同様に証明中での技術的利用を正当化出来るに過ぎない、と考えるべきであろう。
他方「集合構造の研究基盤」という第二の観点からは、正則性公理は「反復的集合観」等「集合概念に内在する性質」と主張し得る根拠を持つ。(しかし集合概念の創成期にはこの性質は認識されていなかった点に鑑み、「主張し得る」より踏込んだ正当性の主張には躊躇せざるを得ない。)正則性公理を擁護する日本語の論説ではその技術的有用性ばかりが強調され、多くの人にこの公理の正当性に疑問を持たせる結果となっているのは、非常に皮肉なことに思える。「便利で害もないから採用する」と説明されれば、採用しない方が自然だと考えるのが通常の感覚であろう。(正当性を宣伝しているつもりが疑問を広めているのである!)しかしこの公理は決してこうした「技術的ご都合主義」により正当化されるのではない。
また第二の観点からは当然に採用されるべき外延性公理も、第一の観点からは拒否すべきものと話者は考えている。これは決して通常の数学の活動において外延的な等号関係は不要という意味ではない。実際「各型ごと」の外延的等号は容易に定義可能であり、通常はこれで十分である。そして「全域的」な外延的等号も少々複雑になるものの定義可能である。これはむしろ「全域的」な外延的等号を、原始論理式として最も単純な複雑さに分類することを拒否するだけだと理解すべきである。
「数学の基礎」たる集合論において正則性公理も外延性公理も拒否すべきと考える理由は、(順序対を原始記号とせず不自然とも思える Kuratowski の方法で表現するのと同様に)数学において必要な概念を表現するのに必要最小限の言語と公理に制限すべきであるといういわば「極小主義」の観点からのみではなく、これらの拒否により数学的定理についての数学的研究(超数学)がより精密に行えるからである。実際、「ブルドーザー的」なZFC 集合論から離れ、正則性公理や外延性公理のない集合論を用いることで、逆数学等の精密で豊かな議論が可能となることを、話者は最近の結果の中で示している。「ブルドーザー的」にすべての数学が展開できるだけの基礎よりも、数学の展開に関してより精密で豊かな構造を見出せる基礎の方が、「数学の基礎」として適切だと考えるのは至極まっとうであろう。
ことほどさように、集合論の二つの側面のどちらを見るかにより、採用すべき公理は全く異なってくるのであり、この意味においてそれら二側面は明確に区別されるべきものなのである。

藤本健太郎「自己適用可能な真理の超限反復と自律的反復について」

(Transfinite Iterations and Autonomous Progressions of Self-Applicable Truth)
我々がある数学理論もしくは公理系を受け入れる時、一体何を(暗黙裡に)受け入れているのか。また、ある理論を受け入れることによって、我々は何を受け入れなくてはならないのか、もしくはどこまでを受け入れることが正当化されるのか。そういった問いに対する一つのアプローチとして、Autonomous progressionの概念は、主にKreiselやFefermanによって提案されました。1つ目の問いに対する1つの自然な応答として、「我々が理論を受け入れる時、我々はその理論を真であるとして受け入れる」、というものが考えられます。理論Sに真理述語"T"を加え更に"T"がSにとっての真理述語であることを表現している公理を加えた新しい理論Qとします。上の見解の1つの解釈としては、「我々は、Sを受け入れることによって、既に暗黙裡にQを受け入れている」、というものが考えられます。
すると、我々はQを既に受け入れたのだから、それに更に同じ操作を繰り返した物をも受け入れることになるでしょう。本発表では、この操作を超限回反復したもの、特に自律的(autonomous)に反復したものについて、論じます。
このような試みは既にいくつか知られています。まず、古典的なTarski的真理の反復と自律的反復に関しては、Fefermanによって既にその証明論的分析が与えられました。特に、Tarski的真理の自律的反復は、所謂Feferman-Schutte ordinal \Gamma_0に よって、その強さが表現されます。よって、Tarski的真理の自律的反復は、例えば、可述解析と同一の算術的内容を持ちます。また、近年、Jaeger, Kahle, Setzer, Strahmによって、Kripke-Feferman的真 理の超限反復が定式化され、その証明論的分析が与えられました。
Kripek-Feferman的真理の自律的反復に関しては、Strahmによってその証明論的強さが求められ、その順序数は\varphi 200であることが知られています。 よって、Kripke-Feferman的真理の自律的反復は、例えば、KPh^0と証明論的に同値(proof-theoreticaly equivalent)です。
真理(述語)の公理化にはこれらの他にも様々なものが知られています。本発表は、上記のもの以外の公理化における超限反復と自律的反復について論じます。いくつかのものは、メタ可述的な証明論的強さを持ち、またいくつかのものは非可述的な強さを持ちます。
Strahmの結果と共に、これらの事実は、可述的部分を越える算術的言明の1つの正当化となり得ると考えられます。

藤本健太郎氏の略歴:
東京大学文学部哲学科卒。東京大学総合文化研究科にて修士号を取得後、渡米してStanford大学哲学科にて、S. Fefermanの下でMA取得。現在はOxford大学哲学部博士課程に在籍中。V. Halbachの指導の下で、主に公理的真理論を研究。