パラドックス研究会 "The deflationist's view of axioms for truth" (Halbach & Horsten) (1)
"Deflationism and Paradox" pp.203-217。 出席者3人、今回のレジュメは私が担当したが、所々意味を反対に訳すという離れ業を演じてしまった…(爆汗)。多くの間違いのご指摘により、以下のレジュメは、何とかみられるものとなりました。
- 作者: J. C. Beall,Bradley P. Armour-Garb
- 出版社/メーカー: Oxford University Press, USA
- 発売日: 2008/07/15
- メディア: ペーパーバック
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デフレ主義
我々は、(我々が理解しているところの)デフレ主義の中心となる主張をのべる。これらの主張は、実際の哲学的ドクトリンではなく、方法のみを言っているために、弱い主張である。
- 真理とは論理-数学的概念であると言う主張が、デフレ主義的真理概念の中心にある。
- 文もしくは命題が真かどうかは、世界との因果的関係にあるような偶然的事実とは全く関係がない*1。指示の因果的-歴史的概念は、デフレ主義の真理理論(TT)の基盤とはなり得ない。
- 真理は、論理的 or 数学的表現のように振る舞う:他の論理的 or 数学的概念と組み合わされたとき、世界の偶然的事実から独立した文や命題を形作る。
- 真理は公理化される(真理は原始的で未定義な概念である)。
- このアプローチは、他の意味での真理が、他のものから定義可能である可能性を排除しない。それよりは、デフレ主義者は、もし我々が無限連言*2や量化をもつ形式の文を使わないならば、真理概念が不可欠なものであると言っている。
- クリプキの不動点理論や、Gupta-Belnapの真理の改訂理論のような意味論的真理理論は、デフレ理論ではない。これらの理論は、(メタ理論である)集合論(ST)上で、真理概念を定義する。従って、真理概念は原始概念ではない。 さらに、これらの意味論的真理概念は、それらが定義可能なため、不可欠(indispensable)ではない*3。
- タルスキからクリプキまでの意味論的真理概念や真理の改訂理論は、真理をその枠組みの中で定義できるような、より強いメタ理論に頼っている。結論として、それらの真理概念は、我々が使用しているような言語全体についての真理概念であるという意味での普遍性をもたない。一般的にトイ言語とトイ理論を、STの立場から研究することは、デフレ主義者を満足させない。彼らは彼が使用する言語の真理概念を求めているからである。
タルスキの真理理論
- 多くのデフレ主義は、「引用解除的」TAを発展させた内容を持つ。 *4。特に、一部はT-文 or 引用解除文のあるバージョンに頼っている。
- 矛盾を防ぐために、 が を含まないように、TAに制限を加えることもできる。
- しかし、このような形のT-文について、タルスキが言ったように、「T-文は興味深い一般化を証明するにはあまりに弱すぎる」。真理理論は土台理論にあまりに近く、興味深い一般化を証明することができない(演繹的に弱い)。
- T-文の演繹的弱さが、我々が真理の合成理論を受け入れるモチヴェーションとなる*5。合成性に関する公理は以下の通り(Lは言語)
- (T1) ,
- (T2) ,
- (T3),
- (T4) ,
- T1-T4をPAやSTに加えるときは、TAを加えるだけでなく、Tを含む新しい拡張された言語上で公理図式として拡張する方法を考えることは魅力的(AがTを含んでいても良い)。これに、さらにTAを加えることも可能。
必要なもの
- タルスキの嘘つきパラドックスの解決は、言語哲学では、部分的な成功でしかなかった。デフレ主義者は、「嘘つきパラドックスのより制限されていない解決を考えつく」という問題に直面している。もちろん矛盾の導出は阻まれなければならないが、しかしタルスキの粗いやり方によってではない。
- 一度デフレ主義者が真理への公理的アプローチに賛成すると決めた以上、彼は、そのような理論 S がもつべき性質を明確化することを企てることができる。そんな必要事項のリストを以下に示す*6。
- (D1): Sはシンプル性と自然性の要求を満たすべき:理論は可能な限り ad hoc な要素を持たないべき
- (D2): Sは真理の合成的な本性を満たすべき:Sは、ある文の真理値が、その文の部分文の真理値からどのように決定されるかを説明しなくてはならない
- (D3): Sは可能な限り多くの真なる無限連言文を証明できるものであるべき:真理述語をもつ最大の理由は、無限連言(の内容)を(有限的に)表現するためである。しかし、無限連言を表現することは、それが証明できなければ余り意味がない。
- (D4): Sが 真理述語について推論する土台の理論(内部論理)は、Sが閉じているところの論理(外部論理)と同じでなければならない*7 *8。 D4は、我々は、我々が使用している言語の真理を捉えたいと言うことを表現している。特に「ベース論理は古典論理(CL)で、真理は部分論理(PL)で」のような非対称性(メタと対象レベルで使用される論理の分離)を避けたい*9。
- (D5): 古典論理(CL)が望ましい。外部論理だけではなく、内部論理も古典論理であって欲しい*12。
- デフレ主義者は、もし彼が真理はいかなる意味でも無垢でシンプルであるべきと考えているならば、D3を受け入れないだろう。我々は、デフレ主義者の真理は、一般化(または無限連言の内容を表現できる文)を導出するためのツールであると信じている。
- デフレ的真理は、他の論理-数学的概念(「要素である」など)と同じくらい非実体的である*13。しかし、だからといってこのことは、デフレ主義者に、TTは演繹的に弱いものであるべきだ、などと強制したりはしない。これは、特に、我々はTTがいかなる意味でも保存拡大になることを望んでいないことを導く。
- というより、真理概念が有用であるならば、それは証明論的に強力で還元不可能なものとなることが判明するだろう。これは、「真理は一般化をするための不可欠なツールである」というデフレ主義ドクトリンを踏まえてのものである。
- D4はD5より優先する。もし、非古典論理(PL)を内部・外部論理として選ぶならば、それはPLとして統べられなければならない。
タルスキを超えて
- 一度タルスキの嘘つきパラドックスの解決法(真理述語の階層性)から降りて、真理述語を含む文への真理述語の適用を許したら、我々には以下の二つの道がある。
- PL(もしくは多値論理)を受け入れ、真理値ギャップや真理値グラットを受け入れる(CL上で公理的に表現する場合、それらを表現する真理の部分的概念(Partial Conception of Truth; PCT)を受け入れる)。
- CLに固執
- 非古典論理ベースの解決についてまず論じる。
- KFとその近親は、内部・外部論理の非対称性が激しい(PCTをCL上で記述している)。
- KF では嘘つき文 は真ではない i.e. ,
- 一方 が成立、すなわち は KF の定理である。
- すなわち、は外部論理の定理であるが、内部論理の定理ではない( が成立しない)。つまり外部論理 内部論理 となる。 KFは、古典論理上の公理的理論と見なすと、D4をみたさない。
- KF を完全にPL上の理論と考えることも可能。この場合内部論理=外部論理となるし、理論の背景にある大きな絵もわかりやすい。。
- KFは(広い意味で)合成的である。
これ以降、VFの話は次回に持ち越し。
ちなみに、Sheardの論文が掲載されているのはこちらの本です。
- 作者: Volker Halbach
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*1:が成立するかどうかは、もしかしたら偶然的かもしれない。しかし、が成立するとき、そこから論理的に が成立することが帰結される。
*2:「彼の言ったことは全て真である」ような、真理述語無しで表現しようとすると、無限個の文の連言になってしまう文のこと
*3:この点で、意味論的真理概念は真理の実体的理論(substantial theory:対応説、整合説、プラグマティスと、etc.)に似ている。それらの説のほとんどのバージョンでは、真理を State of Affairs や対応や整合性や効用によって定義している。
*5:Davidsonのような他の人たちは、有限公理化のような他の理由によって合成性を受け入れる。
*6:これらの要求は、Michael Sheardの「素朴な要求」とオーバーラップしている。
*7:大まかに言うと、内部論理は真理概念を表し(多値論理の真理概念を表現することもある)、外部論理はメタ理論の論理を表すと見なせることが多い
*8:内部論理=外部論理のとき、 と が同じ論理法則に従っていることが保証される(両者が食い違うとき、真理値ギャップなどを表現していると見なされる
*9:これは、Sheardでは「証明可能なものは真である」に対応する。
*10:真理概念を表現する;後述のKFなどの場合、クリーネ3値論理の真理観を表現し、これ自身は3値論理をCLで表現した形になる
*11:ベースとなるメタ論理を表現する; KFの場合はCL
*12:CL上のTTについてのD5は、「真理は第一に論理-数学的概念である」という信念に由来している。歴史的に、CLは数学における推論を意識的にやろうという試みから始まった。だから、もし真理が論理-数学的概念であるならば、それはCLによって統べられるはずである。
*13:因果性や対応や整合性や効用と同じようには「実体性」には頼っていない。
*14:例:KremerによるKripkeの公理化
*15:その場合、TTはCL上とはいえ、PCTを記述している