ラッセルのパラドックス:傾向と対策 番外編:ラッセルのパラドックスは何についてのものか?

野矢氏の本についての話で、「ラッセル・パラドックスの核心」という話が出たので、そのついでに。

真理値の使用は「核心」か

以前、このBlogのエントリーで不完全性定理を取り上げた際、「ラッセルのパラドックスは真理値(意味論)の問題だが、不完全性定理は証明可能性という構文論の問題だ」と書いたことがあります。この件について、その後、ある人からお叱りのメールをいただきました。ラッセルのパラドックスは、真理値の問題ではない、というのです。彼の主張を、この「傾向と対策」シリーズで使った用語に言い換えれば、次のようになるでしょう。すなわち、

  • ラッセルのパラドックス、すなわち「古典論理ラッセル集合の存在を仮定すると矛盾が導出される」は、純構文論的(証明論的)に、真理値をいっさい使わない形で定式化することができる。
  • だから真理値は「核心」ではない。

グリシン論理を使用するような、証明論的アプローチの視点からすれば、こういう言い方もある程度は得心が行きます。

しかしこの主張には以下の反論があり得ます。
すなわち、古典論理はタルスキ意味論に対して完全です。つまり、古典論理については、証明論的に考えることと、モデルを使って(真理値によって)考えることは、同値であるはずです。したがって、ラッセルのパラドックスについて古典論理上で証明論的にアプローチすることと真理値を使ってアプローチすることは同値であり、証明論的アプローチの際に真理値概念を使わないからと言って、真理値が不必要なものとして消去できるとは限らない、ということです。
もちろん、ある種の哲学的立場に立てば、論理における演繹とは「真なる前提から真なる結論を導きだす」作業であり、逆に証明論的作業を全て真理値の操作に還元し、証明論的概念をすべて消去することができる、と主張することができるかもしれません。この立場に立てば、真理値こそ本質であり、例えば「(証明論的な概念である)縮約規則はラッセルのパラドックスの核心ではない」と主張することができるかもしれない。しかしこの場合も、私は完全性を理由として、「縮約規則はラッセルのパラドックスの核心ではない」という言い方はできない、と考えます*1

どの解決法が「正しい」のか

さて、ラッセル・パラドックスは何についてのものか、という点に関しては意見の一致がまるでありません。集合の存在公理の問題という人、言語にしっかりとした文法が必要だという人、縮約規則や0/1の真理値や正規化できない証明図が悪さをしていると主張する人、いろいろです。他にも、ウィトゲンシュタインは個体と名の問題(という理解でよろしいんでしょうか?)として解消したはずですし、際限なき拡張可能性に訴えるタジマ主義もあります。
では、どれが「正しい」のか?あまりに陳腐な回答ではありますが、答えは、「正しい」という言葉をどんな意味で使っているかによるとしかいえない、というものしかありえないでしょう。Timothy Chow の言葉をまねれば、「ラッセルのパラドックスを解決するとは、それを(ある特定の「解決法」によって解決しやすい)別の形に作り替えることである」といえるのかもしれません。つまり、タジマ氏の『解決』したラッセルのパラドックスは、私の知っているラッセルのパラドックスとは、もう別の問題になっているのでしょう。

*1:後記:この記事を読んだ別の某氏からツッコミが入り、こういう反論だと最初の主張の「ラッセルのパラドックスは真理値(意味論)の問題だが、不完全性定理は証明可能性という構文論の問題だ」そのものが意味をなさなくなるじゃん、といわれました。・・・そのとーりです。あの記事を書いた際は、やはり不完全性定理の意味論的証明の重要性をちゃんと捉え損ねていたのでは、と思います。現在、私自身はもう最初の主張は擁護する気はないことをここで確認します。もちろん、真理概念はモデル相対的な性質だが、一方で不完全性定理は構文論的手段のみでも証明できる、つまり不完全性はモデルから独立に定式化できる(というか特定のモデルから独立した、モデルのクラスの性質である)、という点の重要性については、強調しすぎてもしすぎることはないと考えます(この点は変わりません)。っていうか、元々あの記事ではこの点を訴えたかったのであり、あの記事は余計なことを言って混乱を招いてしまった、と反省しております。