「F. W. ローヴェアによる随伴関手を用いた集合論の基礎の理解とその展望」(深山洋平)

北海道大学哲学会研究発表会(2005年)、ファイルはこちらから入手可能。
圏論は数学的に強力な道具であり、例えばまったくの別物と思われて来た高階論理とZFC集合論など異なる理論の間の共通の数学的構造をあぶり出し、定式化するのに非常に適しています。この意味で、圏論が数学の哲学に大きな影響を与えることはあり得るでしょう。しかし、それ自身として、例えばラッセルの型理論言語哲学や「数学の基礎付け」プログラムに持ったような直接的な哲学的影響を与えることが出来るかは定かではありません。深山氏の論文は、この両方の点(圏論の数学的強力さと、哲学的な解釈の難しさ)について、示唆を与えてくれるように思えます。
深山氏のこの論文は、F. W. Lawvere の"Cohesive Toposes and Cantor's 'lauter Einsen"の日本語解説です。終了。
・・・って訳にも行かないと思いますので、もうちょっと解説すると、カントールにおいて、集合 M の基数(cardinal number)は、その様々な元 m の性質と、それらがおかれている順序や構造が捨象されることによって構成されます(「二重の抽象」と呼ばれます)。というわけで、M の基数の元 a,b を考えると、それらは集合 M の元 A, B が対応しますが、A,Bのもっていた性質はすべて失っています。ところが、 A\neq Bという性質はどうなるのでしょうか。カントールの言い方に従えば、この性質も失っているはずです(各々を識別できない)が、しかし一方で、別の元としてとって来たのですから、 a\neq bを満たしているはずです(互いに区別できる)。つまり、「基数の単位は、互いに区別できるが各々を識別できない」という一見パラドキシカルな性質をもつことになります。
Lawvere はこの議論を圏論で定式化します。構造を持った(集合として抽象化される前の)「前集合」のなす圏  {\cal M}位相空間連続写像のなす圏と見なされている)と、基数のなす圏  {\cal K} を考え、基数を与える関手 points : {\cal M}\to  {\cal K} を定義します。このとき、pointsの左随伴となる関手 discreteが導入できます。これは、任意の基数  \kappa\in {\cal K} に対して  (\kappa, P(\kappa))という離散位相空間をあたえるものです。また、co-discrete という、 points の右随伴となり、また以下が成立するようなものを与えることが可能です。

  • points(discrete(points(M)))=points(M)
  • points(M)=points(codiscrete(points(M)))

もちろん、離散位相空間よりはco-discrete spaceの方が強い数学的構造を持っています。つまり、構造内の対象や写像には強い制限があり、その個数が制限されているということでもあります。つまり、カントールの台詞は「基数の単位は、(離散位相空間の意味で)互いに区別できるが(co-discrete spaceの意味では)各々を識別できない」と言える、ということになります。Lawvereの議論は、

  • 集合論における「抽象化」というプロセスを圏論的に表現してこと
  • 基数という情報量の減った(元が区別できない)世界の話を、元が区別できるような情報量の多い位相空間に引き戻してパラドキシカルな性質を説明したこと

において非常に価値あるものであり、またこの論法(情報量が少ない構造に関する話を、情報量の多いところに引き戻して議論する)は、計算機科学などで広く使われています。
ただ、この話から哲学的議論をどう引き出すのか。深山氏は、(構造を持たない、抽象的)集合にかんする議論を以下のように行っています。

集合の本性への問いは、抽象的集合の本性への問いを含んでいる。抽象的集合の圏をローヴェアの議論に現れる {\cal K}と同一視すると、ローヴェアが基数の単位に対して試みた探求は、そのまま抽象的集合の元の性質に対する探求となり、そして彼の方法は、随伴関係にある複数の関手を用いて抽象的集合の元に関する情報を増やすものと理解できる。付加される情報の種類は用いられる関手に依存し、用いられる関手がどのようなものであるかは {\cal M}のとり方に依存するから、結局のところ関心は複雑な構造を有する対象から成る圏 {\cal M}に向けられる。つまり、どのような {\cal M}が抽象的集合のどのような性質を明らかにするのか、というアプローチが可能であると考えられる。

とにかく、カントールの議論は「抽象化」という当時は数学的言明の外にあった概念についてのいわゆる哲学的議論で、「基数の単位は、互いに区別できるが各々を識別できない」は哲学的な性質といえます。そしてLawvereの議論の価値はその議論のプロセスや哲学的性質さえ数学化できることを示したことにあります。

(6月23日追加)id:msakaiさんのご指摘に基づき、アホみたいな間違え二点を修正。