"Inventing logical necessity" (Crispin Wright) (2)

18時半より22時まで。参加者は4人、p.191-193。holismを「全体主義」と訳した私は、哲学のセンスがゼロです(何を今更、という話ですが)。

図式的に言って、クワインの構図は次のようなものになっている。θを理論、Lをその基底にある論理としよう。θからLを経由して条件文「IならばP」が得られたとする。その前件はある初期条件を表し、後件はその条件に相対的に、ある予測を定式化している。さて、扱い難い一連の経験 E に直面したとしよう。ここで、「扱い難い」(recalcitrant)とは、私の想定するところでは、それによってわれわれが前件 I に同意しつつ同時に後件 P の否定にも同意したくなるような場合である。さて、総合的言明なるものは存在しないのであるから、これは経験 E が単独でわれわれに P の否定を強制している場合ではあり得ない。同様に、分析的言明なるものも存在しないのであるから、いわば疑いの矢を論理 L へと向けることが合理的に阻止されているようなものでもありえない。かくして、理論とその基底にある論理、および経験 E に対するわれわれの「観察的」反応、これらがひとまとめとして扱い難い経験に直面していることになる。そして、どう対応するのが最善であるかは、われわれに開かれたさまざまな応対に応じてもたらされることになる信念体系に即して、それぞれプラグマティックな基準に基づいて決定されなければならない。

最初に、この図式が不完全なものであることを指摘しておかねばならない。経験 E が理論 θ と論理 L に対して扱い難いものとなるのは、それが \theta\vdash_L I\to Pを前提にするときのみである。この言明 - W と呼ぼう - は理論 θ から論理 L を用いて条件文「I ならば P」の導出を構成することによって確立されたものであろう。そして、通常のわれわれの了解では、それは、真であるならば、分析的であるだろう。とはいえ、明らかに、W を受け入れることが同時に論理 L を受け入れることを意味してしまう訳ではない。W の証明の承認は、たんに、論理 L が保証する一連のステップを実行してみたならば実際に「I ならば P」が理論 θ から導かれる、ということの確認によって為されるにすぎない。それゆえ、「論理 L が保証するステップ」という言い方をしているからといって、そこで論理 L の原理が確認されていることになるわけではない。かくして、経験 E を理論 θ と論理 L にとって救い難いものとして記述するまさにそのことは、W のような言明 - すなわち、証明によって確立され、何か分析的であるとされる言明があるとするならばそれこそ分析的とされるようなものであり、しかも論理 L とは独立な言明 - の受け入れを前提にしているのである。

野矢茂樹訳(二)5第5-6段落より
(内容については、後日追加します)