ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (1)

kururu_goedelさんのところで話題になっていたので。
普通、通俗的な本でラッセル・パラドックスの紹介をすると、「包括原理 (the comprehension principle) が悪いのです、だからZFが建設され問題が解決されました、めでたしめでたし」という結論になってしまうのですが、それは間違っています。それ以外にもいろいろな解決法が提案されていて、どれも一長一短があります。
さて、Feferman*1によれば、ラッセル・パラドックスの解決法は、以下のように分類することができます。

  1. Restriction of syntax: つまりラッセル集合の定義文は「文法違反」だ、というもの
  2. Restriction of logic: つまりパラドックス古典論理のせいだ、だから古典論理を制限/変更しようというもの
  3. Restriction of basic principles: つまり包括原理が問題だ、というもの

Restriction of basic principles

上の中で、一番有名なのがこれです。つまりパラドックスは包括原理が強すぎるから問題が起こるのであり、

  • 古典論理はそのまま保持する
  • 集合の存在保証原理をもっと弱め、整合的な体系を建設しよう

ということを目指します。ご存知かとは思いますが、一応おさらいを。

反復的集合観

この種の体系で最も有名なのはもちろん ZF および ZFC でしょう。これらの体系の根ざしている集合観は以下のようなものです。

反復的集合観*2
集合は、既に集合であることが保証されているような集合に、ある許された種類の操作(「和集合をとる」など常識的に許されそうなもの)を加えることで構成されるものである。

ラッセル・パラドックスの本質は、ラッセル集合「自分自身を含まない集合の集合」の自己言及性(「自分自身」に言及している)にあり、包括原理の問題点はこのような自己言及的な集合を許してしまうことにある、という分析がこの集合観の元になっています。
反復的集合観でも、例えば「これまでに構成された集合のうち自分自身を要素として含まない集合の集合」ならば定義できます(例: \{ x: x \not\in x\, \& \,x \in V_{\omega}\} とか:これはVω+1の要素になります)。この場合、自分自身が自分自身の要素とならなくても、何の矛盾も生じません。しかしラッセル集合、つまり「自分自身を要素として含まない全ての集合の集合」は、全ての集合が定義された後に定義されなければならないはずですが、そのときはラッセル集合自身も定義されているはずで、これは矛盾です。このように反復的集合観はラッセル集合の定義に必要な自己言及性を排除します。

ZFC

ラッセル・パラドックスの分析という文脈における、ZFCを研究することの意義は、

  • 包括原理のサブセットで、矛盾を起こさない(ラッセル集合の存在を認めない)ぐらいには弱い体系でありながら、どれだけ現代数学を展開できるかを教えてくれる
  • 包括原理なしでカントール流の高階の無限に関する理論を展開できる

ということでしょうか(もっとあると思いますので、ご存知の方はご一報ください)。
体系 ZFCの利点は

  • 多分無矛盾であるらしいこと(数十年にわたって、多くの優秀な研究者が矛盾を見つけようとしたが、誰も矛盾を見つけていない)
  • 古典的数学(と大抵の現代的数学)がここで展開できるので、「数学の基礎」と呼ばれうる体系であること
  • 数学的に面白いこと、とくに解析学や実数上の組み合わせ論を研究する上で面白い現象が起こること

そしてZFCの問題は

  • 自己言及的な現象を取り扱えないこと:たとえば圏論では圏全体は圏をなしますが、ZFでは集合全体の集まりは集合ではない
  • 上のような意味で、現代的な数学や計算機科学の基礎というには少し役不足であること
  • 他に、計算機科学者にとっては集合と証明や計算概念との直接的なつながりが見えないのであまり役に立たない、哲学者にとっては無限基数のような数学的対象がいかなる意味で「存在」しているのか解釈するのがとても難しい、etc.

という点があげられます。

ZFA

もちろん古典論理下では全ての体系が自己言及性を表現できない、という訳ではありません。例えば限定的な表現として、計算機科学等で扱う「有限的な自己言及サイクル」に関しては、ZFの Foundational Axiom を外して、かわりに以下の公理を加えた体系 ZFAを考えることで表現できます。

Anti Foundation Axiom(labelled graph version)
(自己言及的なものも含め)任意の有向グラフで表現される集合について、一意にその存在を保証する*3

ZFAでは、例えば「自分自身のみを要素として含む集合」 x={x} なども、集合として存在が保証されます。ただし、ラッセル集合などは定義できません。この点が古典論理下での整合性を保証するのですが、私はこの点が自己言及性を表現する理論としては弱い点であると考えます。

古典論理の下での自己言及性の極限?

また古典論理と自己言及性に関する補足ですが、id:wd0さんのご紹介のあったNFのバージョンにNFUというものがあります。NF/NFUが "Restriction of basic principles" に分類されるかどうかは微妙なところですが、それはともかく、これらの特色は、ラッセル・パラドックスのような悪循環を起こしかねない論理式を切り捨て、問題を起こさなそうな論理式(stratified formulae)に関してのみ包括原理の適用を許すという点です*4。驚くべきことに、NFUは「集合全体の集合」のような「悪さをしない」自己言及的な無限集合の存在も保証します。私の知っている限りでは、古典論理下で自己言及性を最も深く保持していますが、そのせいかNFの無矛盾性の証明に関して難しい問題があります。
詳細はNew Foundation Home pageElementary set theory with a universal set (Holmes, M. R.1998)をどうぞ。

時間が遅くなってしまったので、今日はここまで。次回は"Restriction of syntax"、つまり型理論的な解決策をご紹介します。

*1:Useful type-free theories, JSL vol.49, no.1, 75-111

*2:「反復的な集合観」ジョージ・ブーロス、「リーディングス数学の哲学」所収

*3:そのグラフが decoration を持つ

*4:stratified formulaeに関する包括原理は、NFでは公理図式、NFUでは定理として成立