“Logical Pluralism” (1) (Greg Restall & JC Beal)

Australasian Journal of Philosophy, 78 (2000) 475-493、こちらで入手可能。
10時半より昼食休憩を挟んで16時まで、参加者5人。IG氏がレジュメ、私がEtchemendyについての解説レジュメを担当。本日は第5章まで。

FregeやRussellの時代に論理学の主題は論理的真理におかれ論理的帰結関係は二次的なものとして扱われていたが、いまや逆に論理的帰結関係こそ論理学の主題である。多くの場合、とくに非古典論理においては帰結関係をルールに則った記号の書き換えとして解釈する。しかし(Etchemendyが書いているように)記号書き換え系(deductive system)は特定のルールと特定の言語にきつく結びつけられているが故に、特定の言語を離れた論理的帰結関係一般の分析の枠組みとしては不適当である。
論理学において伝統的に使われてきた帰結関係の一般的な定義は、Tarskiによって有名になった以下の(V)がある。

(V) 前提Σは結論Aを帰結する ⇔ Σに含まれる全ての前提が真となるどのようなcaseにおいても、Aは真となる

古典論理に関して通常この定義は適用されてこなかった。例えば直観主義論理(のBHK解釈)では帰結関係を「真」ではなく「証明」をキーフレーズに解釈するのが普通だ。
しかし著者らは非古典論理(関係性論理、矛盾許容論理、直観主義論理)に関しても(V)によって帰結関係を定義するべきだと主張する。それもなるべく古典的真理観を保持しつつ。つまり

  1. 矛盾許容論理の解釈のときに 「Aが真であり、かつAが真でないことが同じ世界で同時に成立する」ことを認めない。
  2. 直観主義論理において「真である」を「証明がある」という風に読み替えることを拒絶する。

つまり、著者達は、(V)における「真である」を、古典論理における「真概念」の自然な保存拡大になっていることを要求する
では彼らはどこを変えるのかというと、もちろん"cases"の領域である。もともと(V)は "cases" とは何かについて何の説明も与えていないからである。というわけで、

  1. Tarski semantics全体を領域に取れば、古典論理の帰結関係が定義出来る(Tarskian account of Validity)、
  2. 可能世界全体を領域に取ると、必然性と論理的帰結関係を(ついでに分析性も)同一視するような帰結関係が定義出来る(the necessary truth preservation account ofr validity)
  3. 状況意味論上で「両立可能性関係」を定義することでKripke frameっぽく矛盾許容論理の意味論を(古典的真理概念に反しないように)定義でき、
  4. 直観主義論理の帰結関係についてはKripke frameによって説明する(彼らはBHK解釈もHeyting代数も排斥しかねない雰囲気だ)。

どれも(V)によって帰結関係が定義され、そして体系間の違いはcasesの領域の違いという風に定式化出来るので、複数の体系を比較する枠組みを手に入れたことになる。またあくまでも体系間の違いは領域の違いによるので、どちらが"One true logic"なのかといった不毛な議論から解放される。
著者達の方針に問題があるとすれば、まず古典的真理概念(に近いもの)によって非古典論理、例えば直観主義を説明する際、直観主義者・構成主義者が大切にしているもの(「構成とはなにか」といった問題意識とか)が消し飛んでしまうことである。また証明論的に定義される多くのdeductive systemについて、彼らの帰結関係を「真」に還元する方針がどこまで有効かとても疑問だ。このように、中途半端な多元主義は誰も満足させないという残念な結果を生むことが多い。
多くの非古典論理の体系が研究されている現在、それらを評価する上で何らかの共通の基盤が必要なのは確かである。著者らの枠組みが成功しているとは私には思えないが、このような試みは必要だし、この結果は改良されていくべきだろう。他の種類のアプローチは当然可能だ。著者達の論理的多元主義は、"cases"の領域のみを変更し、「真である」の解釈は変更しなかったが、私は非古典論理における帰結関係を十全に解釈するためには少なくとも真理概念の本質的な改訂が必要であると信じている。
次回読書会は13日(水)、この論文の続き。