"Can we see numbers? Can we see sets?" (Byeong-Uk Yi)

発表内容はこちら

  1. ベナセレフのディレンマ*1を解決するため、数学的知識は経験によって得られることにしたい。そのため、自然数を属性と考えよう。つまり、「xはn個ある」は、「xは赤い」と同じような経験的な属性である、と考える。
  2. Maddyらは、集合を属性と考える。すなわち、「属性「二匹いる」を持つ牛たちがいる」のではなく、「属性「濃度2」を持つ牛の集合が一つある」と考える。しかし、Yi氏は集合の存在論にはコミットしたくない。だから、自然数は「見ることが出来る」*2が、「集合は見ることが出来ない」
  3. 自然数が、有理数や実数や無限集合と違って特別な立場にあるのは、複数量化(prulal quanitification)を使って表現できるから。そして複数量化は、英語などの複数形の解釈で威力を持つが故に、正当化できる。他の数学的対象では、例えば「xは三角形である」は属性として認める。「xは群である」は、関係の理論の枠組みの中で、属性として認める。
  4. Yi氏は、自然数に関しては、もちろん 2^{2^{100}}のような大きな数は、認識論的な基盤を持たないだろうことは認める。それからYi氏は「xは無限に存在する」の様な属性も認めるが、これは無限集合の存在を認めているのも同じように聞こえる。しかし、集合の存在を認めずに自然数に関する知識の獲得を経験的に説明することは、譲れないdevided lineである。

こう見ると氏は集合論が嫌いのようだが、しかし氏はかつてトニー・マーティンの学生で、集合論の知識の獲得の理論に深い興味があるとかプロパークラスの問題に関心があるとか言われていた。
上記のまとめについて、出席者の方、誤解などを見つけられたら、ご指摘くだされば幸いです。

*1:プラトニストの様に数学的対象が人間の経験と独立に存在すると考えると、人間がどうやって数学的知識を得るのかを説明できない

*2:属性「二を持つ」は属性「赤い」と同じく、目で見て取ることが出来る;経験的な基盤がある