"Conceptual structuralism and the continuum" (Solomon Feferman)

最近、ごく一部で "PhilPapers"が流行っているようですが、そこで見つけたスライド、ファイルはこちら。まずFeferman奉じるところの概念構造主義を説明し、その視点から「連続体仮説 (CH) は確定的な数学の問題ではなく、本質的に曖昧な問題だ」と結論しています。
話の流れは

  • 数学の客観性は、繰り返し人々が(数学を使って)コミュニケーションを続ける際の安定性と整合性、そして数学のクリティカルな精密さと、しばしばお互いに独立して数学をしている独立した個人による拡張に存する。
    • 数学の客観性は、社会的現実(social reality)の中に遍在する間主観的客観性の一例である。
    • ちなみに、社会的現実の中に遍在する間主観的に客観的な文の例としては「私の結婚記念日は12月9日である」とかである。
    • この意味で、数学は人間に依存しているので、プラトニズムは受け入れられない。
  • 数論の例:
    • <が全域的な順序であること、1が最小元であることなどはevidentな事実である。
    • 次のステージにおいて、reflectionにより我々は、最小数原理(least number principle)を認識(recognize)することが出来る
    • かくして、+や×などの演算について、implicitにしか含まれていなかった性質を認識していくことが出来る。
    • この方法を進めていくことで、古典論理の使用、数学的帰納法および再帰法まで正当化できる。しかし、もちろん帰納法が適用可能なのは(「xは砂山である」のような曖昧な述語ではなく)確定的な述語のみに限られる。
  • さて、自然数の集合 N に関し、CHは「全てのNの部分集合の集まり S(N)と可能な関数」についての命題である。
    • 任意の確定的な述語 P(x)について、 (\forall x\in X) P(x)が必ず確定的な真理値を持つ(真か偽となる)とき、Xは「確定的な全体性を持つ」という。
    • しかし、集合に関し、「全ての集合」という概念は確定的な全体性を持たない。
    • S(N)やS(S(N))が確定的な全体性を持つ、と語るためにはプラトニストになる必要がある。
    • 従って、概念構造主義者にとって、「任意の集合 X の部分集合の集まり S(X)」の全体性は、本質的に曖昧なのである。

で、個人的な感想なのですが、初めはともかく(でも、数学を使用すると自然現象をうまく説明できるのはなぜなのか、この路線で説明するのは困難かもしれません)、最小数原理が正当化されるというところから、ついて行けなくなりました(最小数原理を正当化するreflectionって何?)。議論が足りないと思うのですが、それは当然で、たかが一つのスライドで、そんな箇所をちゃんと説明できるわけがない。というわけで私の結論はこちら:

34ページのスライドで、概念構造主義の主張を理解できると思うな。

でした。おそまつ。