「プラトニズムは認識論的に破綻しているか?」(ボブ・ヘイル)

フレーゲ哲学の最新像」(勁草書房)所収、行きの機内で読了。おすすめです、っていうかまだ読んでいなかったことがとても恥ずかしい基本論文です。

背景説明:ネオ・フレーゲ主義

自然数を構成をする際に、フレーゲは集合(概念の外延)を使用しました。

  • 自然数暗黙的(implicit)な定義:二つの概念 F,G に関して、Fを満たすものとGを満たすものの間に 1-1 対応がつけられる(例えば「太陽系の惑星」という概念を満たすものと「ヤマタノオロチの首」という概念を満たすものの間には1-1対応がつけられる)ものは「等数的」である(ヒュームの原理
  • 自然数明示的(explicit)な定義包括原理によって、「概念 F と等数的に同値」という概念の外延を定義し、それを「Fの数」とする。

彼は、包括原理は論理的真理*1であって、上のやり方により、自然数論(と解析学)を論理学のみで建設できるだろうと主張しました。彼の立場からすれば、論理的真理は必然的な真理と見なすことができるので、つまり数学は必然的で先験的な真理だと見なすことができ、数学的真理は非先験的な命題である*2という立場を論破することができるはずでした。しかし、残念ながら、無制限な包括原理の使用はラッセルのパラドックスを招きます*3
さて、現在の数学における数の定義は、ZFなどの集合論を使用して、「概念 F の数」を構成します。それでは何がいけないのか。集合論は理論であって、論理ではないと言う点です。集合論の公理は、単なる「仮定」であって、決して必然的な真理とは見なせません。

ネオ・フレーゲ主義者は、ラッセルのパラドックスによって破綻したと思われていたフレーゲの論理主義の骨子を矛盾から救うことを目指します。彼らは、フレーゲの外延の使用は決して本筋ではなく、暗黙的な定義そのものは矛盾を導かないと主張します。では、どのように論理のみを使用して、自然数の明示的な定義を与えるのか。ここがトリックなのですが、「二階の古典論理は論理である」と主張する訳です。昔、クワインは「二階の論理は論理とは呼べない、あれは集合論だ」と言いましたが、裏を返せば二階の論理ではそれだけで集合論のような操作が可能だ、ということでもあります。ネオ・フレーゲ主義者は、クワインに反して二階論理も論理だと強弁することで、論理+ヒュームの原理によって算術の建設をすることを可能としました*4

内容紹介:プラトニズムの認識論的問題とその「解決」

数学的対象の存在論に関して、ネオ・フレーゲ主義者はフレーゲプラトニズムを踏襲しています。つまり、非常に「神秘主義的な仕方で」*5ではありますが、彼らは数学的な対象は存在すると主張する訳です。さて、プラトニズムに対する攻撃のなかで、もっとも重要視されているのが「我々は数学的対象をどうやって知覚しているというのか」という認識論的問題であり、プラトニズムを謳う以上、この疑問に答えない訳にはいきません。ということで、この論文の出番となる訳です。
この論文の主張は、数学に関する唯名論的な主張を行うハートリー・フィールドに対する反論として書かれていますが、要点をかいつまんで列挙すると

  1. プラトニストは、今のところ数学的対象を人間はどう知覚しているのかを説明できない。それはもちろん欠陥ではあるが、決して(それができないからといって反駁されてしまうような類いの)重大な欠陥ではない。
  2. 数学的真理は論理的真理であり、そして必然的真理である。我々の持つ数学的信念が大体において正しいのは、それが必然的な事柄に関する命題だからである。そして必然的真理は、メカニズムはよくわからなくとも、大体において正しく認識される傾向にある。
  3. 必然性に関する命題の典型例は論理に関する命題だが、この論理に関する命題だってどう知覚から正当化されるのかよくわからない。しかし、だからといって、論理に関する命題は認識論的に問題があるから正当化できないなんて誰も考えない。だったら数学に関する命題についても、ネオ・フレーゲ主義者のように数学的真理が論理的真理だと考える限りにおいて、数学的対象をどう認知するかというプロセスが(とりあえず今のところ)説明できないからって、重大な欠陥ではない。
  4. 数学的対象の認識の問題は、我々が必然的な性質をどう認識するのかという、もっと広い問題の一環として考えられるべきである(その説明は別論文を参照)。

乱暴なまとめではありますが、以上のように、数学的真理の問題を、必然的真理一般の問題へと還元してしまいます。ネオ・フレーゲ主義者の出発点は「数学的真理は必然的真理である」という点であり、これこそが数学的対象の存在の問題の答でもある訳です。

個人的感想

えーと、問題の逆転のさせ方っぷりにはとても感銘を受けます。数学的対象の認識という難問を、もっと難しい必然的性質の認識の問題に棚上げして、何を解決したことになるのか、疑問がわかない訳ではないですが。

*1:包括原理は、単に単称名辞の働き方を論理的に表現しているルールと捉える。

*2:当時の観点では必然的=先験的=分析的と見なしてよかったと思います。

*3:この点は意外と見過ごされがちですが、ラッセル・パラドックスフレーゲに取って決定的に打撃となったのは、パラドックスを回避するためには、ZFのようなあまり必然的とは見なせない公理系に頼る必要があり、それでは数学的真理が偶然的な真理へと逆戻りしてしまう、という点にあったとも言えると思います。

*4:実際、ブーロスがPAが導出可能であることを証明しています。

*5:テッド・サイダー(c)