"Must we believe in set theory?" (George Boolos)

"Logic, Logic, and Logic" p.120-132. 私の今年の個人的な目標は「Boolosを読み直す」ということで、その一環として。
哲学の論文とは思えない平易な英文で、読んでいて飽きません。専門用語も(集合論関係以外)あまり出てきませんし。しかし結論は過激です。
ZFCを仮定すると、いろいろな無限の濃度をもつ集合が出てきます。例えば、\aleph_{\omega}という基数は、 \aleph_0, \aleph_1, \cdotsという数列の極限で、人間には想像もつかないほどの大きな無限基数ですが、もちろんZFCの意味ではそんな驚くほど「大きな」基数ではありません。似た例として、以下のような条件を満たす基数\kappaを考えることができます。すなわち、
     \kappa=\aleph_{\kappa}
\kappa\aleph_{\omega}よりもずっと大きい基数ですが、もちろん、この\kappaの存在も置換公理(Axiom of the replacement) を使ってZFCの定理として証明できます。このこと自体は何の問題もありません。
そこでBoolosは問う訳です、「本当に、この世に、こんなにたくさんの、\kappa個のものが存在するのだろうか?」。

数学を数学的対象に関する理論と考えると、もし、それだけの量のもの(数学的対象)がこの世になければ、ZFCは「正しくない」理論だということになります。そして、ZFCが上記の\kappaの存在を証明する以上、結局、この主張は「ZFCは、存在者の数を増やし過ぎるので、理論としては不適切である。もっと弱い(少ない存在者しか必要がないような)理論を使おう」という主張を含意します。Boolosは、反復的集合観自体も、決して自明の真理とは考えませんが、「『自然』でありかつ整合的な集合観は、反復的集合観以外知られていない」という理由で、これは保持します。そしてZFCの公理に関して、

  • 外延性公理やペアリングの公理は「自明度が高い」ので保持したい
  • 置換公理や冪公理(Power set axiom)は、存在者の数を増やす原因でもあるので、できれば使いたくない

という態度を取ります。結局 Boolos は、以下のような体系こそ、許容できるのではないかということをほのめかしています。すなわち、

  • ZFCの部分体系で、外延性公理やペアリング公理を含み、
  • その宇宙は、ZFCのランクが  \omega^{CK}_1帰納的順序によって定義できる可算順序の極限)以下の階層の宇宙と大体等しいもの

だそうです。確かに算術や古典解析学帰納的関数論の多くの部分ならば、これぐらいでも展開できそうです。

以前読んだときは気がつかなかったのですが、文中デヴィッド・ルイスやパーソンズについての言及や仄めかしがあります。このエッセイは、彼らの集合論に関する存在論的なアプローチ(理論が存在者をどれぐらいの量必要とするか、という視点から分析し、また正当化する)の延長線上に正しく位置するものでありました。以前は何の話をしているのか全く分からなかったけれど、今回、ようやくその主張の真意が多少は分かったような気がします。
個人的な感想ですが、この論文の説得力のかなりの部分は、流暢でユーモアあふれる語り口に依存するような気もします。結局、どういう意味で「自然である」とか「存在する」と言っているのかとか、哲学論争では必ず泥仕合となる肝心の部分を、このレトリックで切り抜けているだけのような気もしないでもありません、はい。