「曖昧さ:境界不在性と縮約規則」

私の発表は15時から、70分しゃべる(10分オーバー)。
pdfファイルを大学のサイトにおいてあります。興味のある方はどうぞご覧ください。ちなみに発表スライドの一枚目(introduction)は以下の通り。

  1. Sainsburyの主張:
    1. 集合を使用して述語を定義することとは、述語の外延である集合の内部と外部の間に、鮮明な境界線を引くことである。
    2. 曖昧な述語は境界不在性を持つので、曖昧な述語は集合では定義できない。
  2. しかし集合論の観点からは以下が主張できる
    1. 「鮮明な境界線」は、集合を使用して述語を定義するからもたらされるのではなく、古典論理が含む論理法則(縮約規則)によってもたらされる。縮約規則なしでは、集合の持つ境界線は不安定で証明ステップごとに構成要素が変化していくものとなる。
    2. また
      1. 縮約規則のない論理上で、概念の境界不在性に対応する集合論的性質とは外延性を満たさないことである。
      2. 縮約規則があっても、外延性を満たさない集合はエヴァンスの曖昧な対象である。

その後質疑応答がフルに1時間、集中砲火でした。哲学的な立場からの批判は

  1. 「部分構造論理による曖昧な概念のモデル化は、我々の自然言語を実際に理解するメカニズムとはかけ離れているのではないか」
  2. エヴァンスの議論をこのように形式化することは、その議論をわざと貧しくすることであり、その価値を見失わせるのではないか」

というもの。
まず1について。「髪の毛100万本ある人もハゲである」という結論がパラドキシカルに見えるのは、それが我々の日常言語理解に反しているからで、おそらく「髪の毛100万本ある人はハゲではない」という認識は「ハゲ」という概念の日常的理解の根幹にあるのではないか。「『髪の毛が100万本あってもハゲ』という結論は『髪の毛100万本の人はハゲではない』という前提と矛盾しない」という縮約規則のない論理での形式化は、こういう日常言語理解に反している。また人間の心理的カニズムが「ハゲである」と認識するには、おそらく画像パターン認識などとの関連があるはずで、このような単純な推論のみで自然言語の述語「ハゲである」の外延が全面的に記述できるとは思えない、とツッコミを受ける。それに対する答は、部分構造論理を使用したこの試みは、自然言語のある限定された分野の記述とその分野についての限定的な理論構築を主眼としている、そしてこの理論は寛容性というSoritesの推論の特質(および同じ構造を持つ日常言語における会話など)の記述を使命としており、この理論によって全てが説明できるということは目指さない、と応答。
2は・・・形式化したのはエヴァンス自身だし、彼の形式化における「証明できるから確定的」という点は多々問題があったし、その点について条件文として彼の推論を解釈する方法は「最大限好意的に」エヴァンスの議論を解釈しているといえるのでは(と答えた方が良かったのでは、と会場でSn君からコメントをいただく、ありがとうございます)。
他にも色々ご質問、有益なコメントを頂きました。ご静聴ありがとうございます。ついでに、Mn先生の自虐ジョークに、ちょっと申し訳ない気持ちになりました(汗)。帰宅は24時、25時半に就寝。
2月5日付記:yoriyukiさんにご紹介いただく。部分構造論理での解釈について、貫世界同一性の問題との関係を今後考察を加えていきたいと思います。