"There are non-circular paradoxes (but Yablo's isn't one of them!)" (Roy T. Cook)
The Monist, vol.89, no.1, pp.118-149 (2006).
古典論理で矛盾を導くパラドックスの典型例と言えば、嘘つきのパラドックスでしょう。このパラドックスでは「文L = 『Lはウソである』」というように、循環性によって矛盾を導きます。この印象があまりに強いせいか、時々「全てのパラドックスの原因となるのは循環性/自己言及性だ」という言い方をすることがあります。ですが、本当にそうなのでしょうか。この論文では、循環性を原因としないパラドックスといわれるヤブローのパラドックスを題材に、循環的でないパラドックスがあり得るかどうかを考察しています。
ヤブローのパラドックス
さて、ヤブローのパラドックスの説明を次にご覧いただきましょう。以下のような可算無限個の文の列があったとします。
- 「は偽である」
- …
- 「は偽である」
- …
さて、が真だとすると、は偽です。従って、あるk>2 が存在しては真だということになります。ところが、より全てのn>1に関しては偽であることを仮定していましたから、矛盾となります。同様に、が偽だとすると、あるm>1 が存在しては真となりますが、上と同様の議論により、矛盾が導かれます。このパラドックスでは、どこにも循環性や自己言及性が使われていないように見えます。かくして、ヤブローはこのパラドックスは「全てのパラドックスの原因となるのは循環性だ」という俗説の反例となる、と主張しました。
プリーストの反論
ところが、このヤブローの主張に反論が現れました。グレアム・プリーストによるもので、
- 算術において、上の文を構成する際、実は自己言及性(具体的には対角化)を使用している
- この意味で、ヤブローのパラドックスは、自己言及性が原因である
と主張しました。具体的に、プリーストの議論(のクックによる再構成?)を見てみましょう。真理述語を持つある程度強い算術を考え、その上で上のヤブロー文を構成してみましょう。まず、真理述語を利用して、2変数の充足関係 (「ゲーデル数 x で表現される述語は、yによって充足させられる」)を構成します。このとき2変数述語 に関して対角化を行うことで、以下の述語 を構成できます。
もちろんヤブローのパラドックスの文は、この述語を使って構成することが可能です。この意味でヤブローのパラドックスは本質的に対角化と自己言及に頼っているといえるようにも思えます。かくして、ヤブローのパラドックスは原因が自己言及性によるものと言えるのか否か、論争が続いてきました。
二種類の循環性
さて、クックは、論争から得られるものは少ないだろうと言うことをほのめかします。つまり、この泥仕合の原因は循環性の定義が曖昧だからだ、と主張する訳です。クック曰く、いわゆる循環性は、実は二種類存在します。ここでは、簡単のため、述語に関する不動点のみを考え、また、便宜的に、を文の名前とし、その名前が文 L を指示すると考えます。このとき
- 強い不動点による循環性:"old- fashioned liar" など、「名前は 『はウソである』という文を指示する」というふうに、直接的に自分自身の名前を使用している場合
- 弱い不動点による循環性:対角化定理などを使用し、と、左右両辺が論理的に同値である場合
ちょっと両者の違いが分かりにくいのでコメントしましょう。上の場合は文『はウソである』の名前そのものがであるという状態で、名前を持つ文の中で、直接という名前を使用しているので、直接的な循環性を持ちます。下は、両者の指示する文同士は論理的に同値ではありますが、名前そのものは異なる場合です(名前と名前はもちろん異なるものとなるでしょう)。こちらの場合、はと論理的に同値ですが、直接の中でという名前を使用しているとは限りません。両者は、一見同じことのように見えますが、算術上のゲーデル数を使用した対角化や、多値論理上包括原理を持つ集合論など、多くの理論で可能なのは後者のみです。また、外延性を仮定できない理論上では、両者の間で大きな違いが現れます。
ヤブローのパラドックスの場合、のゲーデル数と、のゲーデル数は異なると思われるので、これは弱い意味の循環性を持ちますが、強い意味の循環性は持ちません。そして、弱い意味の循環性は、不完全性定理の証明などそこら中で現れ、決して矛盾を即導くような問題のある原理であるとはいえません。クックは、ヤブローのパラドックスは(弱い)循環性を持つものの、それが原因で矛盾を導くとまではいえないだろう、すなわちこの意味でヤブローは正しいと結論します。