"The Problem of Mathematical Objects" (Bob Hale) (2)暫定版

先週月曜日の講演会の内容紹介。当エントリーは、まだまだ暫定版で、これから修正が必要です。内容について、ご意見/誤解のご指摘をいただければ幸いです。

(1)数学の論理的基礎(logical foundation) v.s. 認識論的基礎(epistemological foundation)

  1. 数学の論理的基礎とは、通常われわれが「数学の基礎」というときに思い浮かべるもの。
    1. 公理の集合(BGのように有限集合なのが理想的)を指定して、そこから論理的に数学(の全部もしくは一部)が導出できるようなもののこと。
    2. ちなみに、ここでの論理とは、BGの場合二階古典論理だが、もちろんそれ以外でも良い(あとで質疑応答のとき出たように、直観主義論理なども選択肢の一つである)。
  2. 一方、認識論的基礎とは、いかにわれわれが数学的命題を知り、もしくは正当化できるかを説明できる account である。
    1. もちろん、数学に関して、構造主義者のように、認識論的正当化は必要ないということも可能であろう*1
    2. しかし、おそらく、全ての抽象的な数学的構造が同格に存在するのではなく、算術などのいくつかの基本的な数学的構造(concrete structure)が存在し、(群などの)抽象的構造(abstract structure)は、それらの具体的構造からさらに抽象化によって構成されると考えることもできる。そう考える場合、基本的な構造には認識論的な正当化が必要となるだろう。
  3. よい論理的な基礎は、決してよい認識論的な基礎ではない。標準的な数学の多くの部分は集合論の枠内で展開できるが、しかし、いかにしてわれわれは集合論の公理が『真』であることを知ったかという疑問は未だ未解決である。

(2)数学的対象の問題「自然数は無限に存在する」

  1. この問題は、数学的理論が関与する数学的対象(算術にとっての自然数集合論にとっての集合)に関するわれわれの信念はいかに正当化されるのか、を問う。
  2. 例えば、算術において、「自然数は無限に存在する」という信念は、いかに正当化されるのか? この問題に関して、以下の二つのアプローチが存在する。
    1. 対象ベース(object-based)のアプローチ: パーソンズなど
    2. 性質ベース(property-based)のアプローチ: フレーゲなど
  3. 今回の講演では、テストケースとしてこの問題について考察を加える。

(3)対象ベースのアプローチ:パーソンズの「直観」

  1. パーソンズ (Charles Parsons)が"Mathematical Intuition"の中でやっている議論が典型的。パーソンズのアプローチのポイントは、知覚(perception)の認識論的安全性(知覚から得られる情報はだいたい正しい)に基づいている。
    1. まず直観を二種類に分類する。
      • intuition of: 準具体的(quasi concrete)な対象はintuition ofというかたちで捉えられる(perception ofと対になる)。
      • intuition that: 純粋に抽象的な対象(空集合とか)はintuition thatというかたちで捉えられる。
    2. 黒板の文字のような具体的な対象はトークであり、perception ofの対象だが、準具体的な対象はタイプであり、intuition ofの対象となる。
  2. このように、intuition ofによる認識は、知覚という認識論的に安全な経路を経由して得られるので、認識論的な基礎があると言える:
    • perception ofの対象: 具体的な対象 = トークン= 黒板上に書かれた「17」
    • intuition ofの対象: 準具体的な対象 = タイプ = 黒板に書かれた文字「17」のタイプである数17
    • intuition thatの対象: 純粋に抽象的な対象 = 空集合など知覚に依存しないもの
  3. 算術の例:「棒言語」(language of stroke strings)で、 |, ||, |||, ||||, .... を考える。
    1. このとき、以下のように棒言語に対するデデキンド=ペアノの公理系のアナロジーを定めることが出来る。
      • Dp1s: | は棒列である。
      • Dp2s: | はどの棒列の後者ともなりえない
      • Dp3s: 任意の棒列は、それ自身も棒列となるような後者を持つ。
      • Dp4s: 異なる棒列は、異なる後者を持つ
    2. パーソンズは、Dp1s-Dp4sは「直観によって正しいと知ることが出来る」と論じている(Parsons1980, p.106参)。黒板上に書かれた棒トークンについての知覚を経由して得られた棒タイプについてのintuition (of)により、DP1-4sが具体的に当てはまっている状態を想像できるという理由で、われわれはDp1-4sを認識論的に安全に知ることができる。
  4. パーソンズの議論の問題点
    1. Dp3sで、「任意の棒列は拡張可能」と言っているが、いかにして3sが任意の棒列について真であると認識することが出来るのだろうか。彼の議論(日本語版p.315-316)によれば、選択肢は二つ、
      • 一つは「漠然と想像すること、すなわち特定のnについてn本の縦棒を想像しているといえてしまうほどその内的構造まではっきりと想像することなく、縦棒の列を想像すること」によって、
      • もう一つは「特定の数の棒列をパラダイム的な例としてとること」(しかしその際には内的構造が重要でないことが見て取ることが出来ねばならない)
    2. これに対するHaleの反論は、「漠然と想像する」とか「パラダイム的な例としてとる」は知覚の場合には行うことができないというもの。
      • つまり、Dp1sの場合、知覚に基づいてトークンに関して同じことが言える(トークン「|」は棒列である)がゆえに intuition ofに基づいてタイプに関してそういうことが成り立つ(タイプ「|」は棒列である)と言いうる。
      • しかしDp3sについてそういうことは言えない(知覚から一般的な内容を導くことはできないので、「任意の〜について〜」という知覚は得られない)。
    3. このような対象ベースの説明の一般的な問題点は、ある準具体的な対象(タイプ)が存在するためには何が必要なのか、ということである。
      • タイプ「赤」が存在するためには、少なくとも何か一つ赤いものがトークンとして存在しなければならない。では数は?*2無限に数タイプが存在することを示すためには、無限に数トークンが存在する必要があるが、人間には数トークンを無限に用意することは不可能である。
      • ここで、トークンが存在することが可能である(possible existence of tokens)場合にタイプが存在する、と条件を弱めることも可能である(この方が「任意の数」でわれわれが意味するところに近い)。しかし、その場合、「可能って、誰に『可能』なのか?」という疑問が生じる。
        • 「人間に可能」と考えると、えらく厳格有限主義チックなことになる。すなわち、 2^{100^{100}}は、人間には想像可能ではない。
        • 「われわれとは独立に」と考えると、「想像可能性の限界」はどこなのか、という問題が生じる。
    • デデキントラッセルの「無限個の数の心的構成」なんて例があったが、この路線では、そういうふうに無限個のトークンを「構成」し、それに対応する無限個のタイプ(自然数)を構成するという道も可能ではある。

(4)性質ベースのアプローチ:フレーゲ(というかネオ・フレーゲアン)

  1. 性質ベースのアプローチでは、抽象化によって、抽象的対象を新たに定義する。この場合の問題は、新たに導入された対象の同一性関係(=)を、どう定義するかということである。
  2. このやり方の代表例はご存知フレーゲ
  3. 彼の議論に対する批判は、よく知られているものは以下の二点である。
    1. ヒュームの原理は、無限個の自然数の存在という存在論的帰結を伴う訳で、非論理的な仮定(non-logical assumption)である*3。だから、フレーゲの定理は、単に算術を非論理的仮定から導出したものである*4
    2. フレーゲ自然数の定義は循環的である。すなわち、フレーゲの体系で「自然数は無限に存在する [tex: \forall x \exists y (x*5。
  4. 以上の批判に対する反論は以下の通り。
    1. ヒュームの原理は決して非論理的仮定ではない!なぜなら、Shapiro-Weir の結果より、古典二階論理の弱いバージョン*6では、ヒュームの原理を満たす有限モデルが存在するからだ*7。だから、この体系では「無限個の対象の存在を導出するが故にヒュームの原理は非論理的仮定だ」という論法は成り立たない。
    2. 循環性については簡単である。「全ての動物は〜である」というとき、馬やアリクイなどの個別の動物に関する知識が無くても動物一般に関する知識が持てる。同様に、自然数とはなにかが前もって分かっている必要はない。
  5. 自然数の個数と性質の個数の関係
    1. さて、無限に数が存在すると仮定しよう。その場合、無限に性質が存在する(数は「ある性質を満たす数」として導入される)。また、それらは人間とは独立に存在することになる(人間は有限個のものしか認識できない)。では、どこで、どうやって、無限個の性質を用意することが出来るのだろうか。
    2. アリストテレス流の普遍者(性質)は、その普遍者を持つ個物があるところにあるとされる。よって、その普遍者を持つ個物が存在しない場合は普遍者も存在しない。でも、ネオ・フレーゲアンは自然数ゼロの存在を導くために外延が空の性質( 0=Nx(x\neq x))が必要なので、アリストテレス流の理論はとれない*8
    3. アームストロングはsparse(まばら)な普遍者理論とabundant(豊富)な普遍者理論を区別する。abundantのほうでは任意の述語に対応する普遍者が存在するが、sparseのほうではある特別な述語のクラスに対応する普遍者しか存在しない。この区別を性質理論一般に当てはめて考えると、sparseな性質理論だと性質の数が有限になるので自然数が無限個あることを導けなくなる。よって、abundantな理論が必要。
    4. 真の問題の原因となるのは、任意の性質に対して、それに対応する対象(外延)をとろうとすると(ラッセルのパラドックスにより)矛盾を導くということである。だから、性質に対象を対応させるやり方に関して何らかの制限を加えることが必要であり、そして同時に、理論が目指す性質(「自然数が無限個存在する」とか)をうまく満たすように制限をコントロールする必要があるということだ。

(5)質疑応答*9

  • (D)幾何の図形は quasi-concreteな対象なのか。
  • (H)それは難しい質問だ。
  • (O)ヒュームの原理はimplicit definitionだから存在論的な含意はない、という主張は理解しがたい。そもそも、ヒュームの原理の左辺には自然数を指示する表現がある。よって、左辺には明らかに存在論的コミットメントがある。だから右辺にも同じコミットメントがあるはずだ。
  • (H)それはKit Fineと同じ誤解である。ネオ・フレーゲアンはヒュームの原理の左辺と右辺が同じ意味だと主張しているのではない。もしそうならば、左辺だけに存在論的コミットメントがあるというのはおかしなことになる。しかし、実際にはヒュームの原理は単なる同値文にすぎない*10。だから定義として使える。
  • (K)確認したいが、自然数の数が有限であるはずはない。にもかかわらず、アリストテレス論理ではヒュームの原理は自然数の数が有限であることを許している。それでもヒュームの原理を「自然数の定義」と呼べるのか?
  • (H)既に述べたように、ヒュームの原理だけでは自然数の個数は定まらない。自然数が無限にあることは性質の理論から帰結する。
  • (K)性質が無限個あることを示したい、というのは自然数が無限個あることを証明することが目的なのか。
  • (H)その通り。
  • (P)(可能世界を使った例を使い「果たして本当に自然数の無限性は帰結するのか?」と質問があり、議論となったが、メモできず)さらに、包括原理が存在すれば、(古典論理上でも)自然数の無限性を導くことはinconsistentlyに可能だ*11
  • (H)例えば包括原理みたいなのが成り立つとすると満たされるべき条件*12が満たされて無限個の性質があることも導ける。しかし、それはopen sentenceの数が無限個あるからなので、結局は自然数の無限性を文の無限性に還元しているだけということになり、あまり嬉しくはない。
  • (Y)包括原理は非古典論理(ファジイ論理やグリシン論理)を採用すると矛盾を導かない。グリシンパラドックスより、非古典論理において性質は非外延的なものも必ず存在する。ネオ・フレーゲアンがそういう論理を採用しない理由は何か。
  • (H)ダメットは、自然数の際限なき拡張可能性を表現するため、古典論理を捨てて直観主義論理を採用した。その故事もあるので、古典論理のみを考えなければならない理由はない。
  • (P)しかし、非古典論理は証明力が弱いため、フレーゲのプログラム全てがそこで展開可能となる訳ではなく、その断片しか得られないことに留意すべきだ。
  • (Y)しかし、例えばグリシン論理においては部分的帰納関数は全て表現可能であり、そんなに弱い断片ではない。
  • (H)この点は、今後検討しよう。

謝辞:

このエントリーの当初版はだいぶ不正確でしたが、K氏からメールでいただいたご意見をもとに、大幅に書き換えました(3〜5節はほとんどいただいたメールが元になっています)。ご協力を感謝します。おかげで、だいぶ不正確な理解を是正できました。

*1:注:その方が、現代の抽象的な代数学などで何をしているのかをうまく説明できる。

*2:パーソンズはタイプが先かトークンが先かとか、いかにして決定されるか、とかについて何も語っていない。

*3:「論理的仮定」とは、以下の二条件を満たすものであるとここでは仮定されているようだ。まず、論理学の用語のみで構成され、primitiveな記号(non-logical symbol)を導入していないことである。もう一つは、存在論的に中立であること、すなわち無限個の対象の存在を含意するような、極端な存在論に関する命題を証明しないことである。

*4:ブーロスなどの批判

*5:ダメット、Truth and Other enigma p.114.

*6:" Aristotelian logic"、すなわち「P(x)を満たす対象が必ず一個以上存在しない限り、{x:P(x)}をクラスとして存在を認めない」もの。この論理では空クラスが存在せず、集合論が内部で展開できない。

*7:これとか参照

*8:脚注6参照、アリストテレス流論理上、ヒュームの原理の有限モデルが存在する。

*9:いくつかメモできないものもありました。ご了承ください。

*10:抽象化の肝。「同じ意味を持つ」と「論理的に同値である」の違いに注意。

*11:矛盾許容論理の使用をほのめかす。

*12:K氏のコメント:Haleは以下のように考えているらしい。すなわち、この問題に関して、可能な解決法は全て以下の二つの条件を満たしている必要がある。まず、性質の個別化条件:これがはっきりしてなければ性質を数えることができないので、性質が無限個あるとも言えない。次に、性質が無限個ある場合でも、外延の数で同値分割すれば有限個の同値類しかないということもありえるが、外延の数が違う性質が無限個あると言えなければ自然数が無限個あるとも言えない。その場合、非外延性が必要になる。