ラッセルのパラドックスと基礎付けの公理

∈-無限降下列が存在しないことを主張するZFの公理は、 Axiom of regurality(正則性公理)ともAxiom of Fondation(基礎付けの公理)とも整礎性公理とも呼ばれ、ややこしい存在です。さて、ラッセルのパラドックスを巡る俗説の一つに「基礎付けの公理は、ラッセルのパラドックスを防ぐために導入された」というものがあります。たしかに基礎付けの公理を仮定すれば、ラッセルのパラドックスを起こすラッセル集合「自分自身を元として含まない集合」は集合として存在しません。でも、これはたまたまであって、別にラッセルのパラドックスを防ぐために導入されたとか、そういう訳ではありません。だいたい、(よく指摘されることではありますが)もしもZFが無矛盾であれば、ZFから基礎付けの公理を除去した部分体系ZF-だって当然無矛盾なはずです。
で、本日、メアリー・タイルズの「集合論の哲学」を読んでいて、まるで「基礎付けの公理は、ラッセルのパラドックスを防ぐために導入された」と読めなくもないような箇所に遭遇しました。公理的集合論の公理の説明の箇所(p.138)ですが、曰く、

かくして基礎付けの公理は、集合論内部でパラドクスが生じることを防止する役割を果たすわけである。なぜなら、ラッセルのパラドクスで問題となった自分自身に属さない集合の集合というのは、存在し得ないものとされるからである。

いや、間違っていないんですけれど、この点を強調しすぎると、誤解を招くのでやめた方がいいと思います。・・・っていうかタイルズさん、ホントに「基礎付けの公理は、ラッセルのパラドックスを防ぐために導入された」とか思ってません?

(1月4日追記)「間違っていない」と「よい」の間

かがみさんから、この件についてコメントをいただきました(コメント欄参照のこと)。基本的には、私はコメント欄でお答えした通りに考えていますが、あの答えはあまりにわかりにくかったので、ここでは、この件についてもうちょっとくわしく補足したいと思います。

タイルズは「間違ってはいない」

さて、ZFから基礎付けの公理を除去した部分体系を、上と同じくZF-と呼びましょう。タイルズが問題の箇所で証明していることは、以下の定理です。

(定理 A)ZF-が無矛盾であると仮定する。このとき、基礎付けの公理を仮定し、またラッセル集合 R を仮定すると矛盾を導く。

証明:基礎付けの公理より、ZFで存在を認められる集合は全て、自分自身を元としては含まない。従って、もしラッセル集合が存在すると仮定すると、Rは全ての集合を元として含むことになる。従って、Rは集合として存在を認められるので、R自身がRの元となる。しかし、このことは基礎付けの公理に違反する。(証明終了)

というわけで、彼女は実際には、「基礎付けの公理+ラッセル集合の存在→⊥」をZF-で証明した、ということになります。
この「証明」そのものは、たしかに間違ってはいません。そして、上の定理について「基礎付けの公理はRの存在を許さない」と書くこと自体は、たしかに「間違い」とまではいえないでしょう。そして、この限定された意味において、基礎付けの公理は「集合論内部でパラドクスが生じることを防止する役割を果たす」というのは・・・とてもいやですが、間違いと断じるのはちょっと気が引けます。

タイルズは「よくない」

しかし上の証明は、非常によくないものです。というのも、かがみさんが指摘されているように、以下が簡単に証明できるからです。

(定理 B)ZF-が無矛盾であると仮定する。このとき、ラッセル集合 R を仮定すると矛盾を導く。

証明:Rの存在を認めるとラッセルのパラドックスがおこり、矛盾を導く。(証明終了)

定理Bでは、定理Aと同じ結論を、基礎付けの公理を仮定することなしに、そして簡潔に、得ることができます。少ない仮定で同じ結論を得ることができる訳ですから、こちらの方がよい証明でしょう。このことは、言い換えれば、もしもZFが無矛盾であれば、ZFから基礎付けの公理を除去した部分体系ZF-だって矛盾だということであり、ZFでラッセル集合が存在しなければ、ZF-でも存在しないはずです。
さらにタイルズは「基礎付けの公理は、集合論内部でパラドクスが生じることを防止する役割を果たすわけである」と書いていますが、それは以下の意味で間違っていることが示せます。

(定理 C)ZF-が矛盾していると仮定する。このとき、ZF-に基礎付けの公理を足しても矛盾したままである。

証明:当たり前。(証明終了)

以上の意味で、かがみさんは全く正しい訳です。問題は、これをもってタイルズが間違っているといえるかどうかです。

私自身、最初の記事で奥歯に物が挟まったような書き方をしていたのは、この辺をどう評価すべきなのか迷ったからです。個人的には、彼女はクロに近いがそうとは断じ得ない、その意味で間違ってはいないが、一方で、よい説明はしていない(その意味で「よくない」)といえるのではないか、と思います。