"Mathematics without foundations" (Hilary Putnam) (5)

19時より22時まで。参加者3人。p.18第2段落より最後まで。

パットナムのトリック

K氏の指摘で議論が始まる。p.19の第一パラグラフ-第二パラグラフの重要な点でパトナムは叙述トリックを使っている。

  • 第一パラグラフでは、集合論パラドックスの話で、ラッセル集合(というよりブラリ=フォルティの「順序数全体がなす集合」とかの方がよいかもしれないが)のようなパラドックスを導く集合を定義することができてしまうため、"all sets" という概念は問題を含んでいる、と言っている。そりゃそうだ。このことは、我々は"all sets"という言葉が何を意味しているのか実は理解していない、ということを意味する。
  • 第二パラグラフでは、しかしすべての "all sets" と言葉の使い方が矛盾を導く訳ではない、と論じる。例えば Axiom of Union は「任意の集合(every set) x, y に対し x と y の和集合が存在する」と保証する。この場面では、"all sets" という言葉の使いかたを我々は理解しているので、"all sets" という言い方全てをあきらめる必要はない、と書いている。
  • そしてパトナムは、この話を受けて、パラドキシカルにならない"all sets" という概念を理解するためのより良い方法として、"the object-modality duality" という点に注目すべきだと宣言し、話は核心に入っていく。
  • さて、この議論の問題なのは、第一パラグラフでは "all sets" という言葉で、包括原理のような集合の存在保証原理の話をしている(the set of all sets というものが問題となる)。そして第二パラグラフでは、unbounded な量化子の問題(every set)である。両者は、少なくともZFCでは、明確に区別されている。だから、パトナムが両者を "all sets" の一言でくくってしまうのは怠慢か話のすり替えである。そして、伝統的な枠組みで少なくとも両者を明確に区別できる以上、この問題を解決すると称して "the object-modality duality" を持ち出してくる必要性はないように思われる。
  • 両パラグラフの議論をつなぐのは、ただ "all sets" という言葉だけである。その意味で、パトナムはトリックを使って、新たな問題("all sets"の意味の複雑さ)を作り出したことになる。「マッチポンプ」と評してもいいのかもしれない。

具体モデル・・・って、ヲイ。

ついでにp20以降の「具体モデル」の議論についておさらいを。
ZFに関して、哲学で問題となることの一つは、「無限の順序数とか大きな無限集合はどのような意味で存在しているのか」である。とくに、ZFの任意のモデルは、集合を構成する操作に関して極大な閉じた集合であるが、そんな「全ての集合構成作業が終わった結果」が既に存在しているとは考えにくい(この点が "all sets" の問題と関係する)。というわけで、既に出来上がったZFのモデル上で集合論の命題を解釈するという標準的な解釈をやめ、様相的な解釈法をとる方法もある。

そのために、まず「可能世界」の構成から。各可能世界はここでは「標準具体モデル」という名前で呼ばれるものになる。

  • ご存知の通り、ZFの集合は要素となる各集合を点とし、membership relation ∈ を辺(向きつき)とする有向グラフと考えることもできる。もちろんZFのモデル自体もグラフと考えることができる。グラフと考えると何が楽しいかというと、「任意の濃度をもつ物理的空間を考えることに困難はないので」*1、このグラフを物理的空間に実際に書かれたグラフだと考えれば、グラフを物理的/具体的な存在として考えることに何の問題もないからである!(わーい、びっくりだ!)つまり、「無限集合」や「数学的対象」といったなんだかわからないものではなく、具体的な物理的対象と定めることで、難問から解放されようという戦略のようだ。
  • さて、簡単のため、ここでは各グラフが Zermelo 集合論 Z のモデルになっている場合を考えよう。Zの公理は外延性/Pairing/Separation/Power Set/Union/無限公理であり、Replacement と Foundation を含んでいない。ZFのモデルが「極大となる」原因は、かなりの部分 Replacement によるものであり、Zのモデルはそれほど「大きく」ならない。というわけで、Zのモデルを表すグラフ(上の意味で「具体的な」(=物理的?)もの)を「具体モデル」と呼ぼう。トリックとしては、ZFのモデルを具体モデルの極限として表す、ということである(これはこれでよく使う手かも)。
  • 次に、具体モデル G が「標準具体モデル」であるとは、以下の二条件を満たしている場合をいう。ちなみに、条件1があるのはZがFoundation Axiomを含まないから、条件2があるのはZがReplacement axiomを含まない(がSeparationなどに関して閉じている)からである。
    1. ∈に関する無限効果列が存在せず
    2. G のランクを上げることなくして、Gにはもう新しい集合を付け加えることができない(その意味で「極大」である)
  • イメージとしては、任意のZFのモデル M に対し、標準具体モデルとは Mα(ランクがαより小さいMの集合のあつまり)という形のもののようになる。それぞれは「全ての集合構成作業が終わった結果」ではなく(「終わった結果」が M である)、その意味で極大ではない。さて、通常のZFの論理式は、簡単にこの体系の文に翻訳することができる。例えば ∀x∃y Pxy は「任意の標準具体モデル Gの任意の点 a をとったとき、Gの拡張となる標準具体モデル G'とその点 b が存在し、Pab が成立する」と翻訳できる。
  • ところで、「様相的」な話が出てくるのはこれから。つまり、我々は「標準具体モデル」なんてものがホントに存在できるのかなんて知らない。
    1. (object view) 集合論の通常の解釈は、ZFのモデルの「存在」を仮定していると考えられることが多く、その意味で「そんなモノ、ホントに存在するのか」という疑問から自由ではない。
    2. (modal view) でも、全ての集合論の命題は「もしも標準具体モデルが存在するのならば、そこでは・・・が成立する」と仮定法で書ける。この立場は、モデルの存在を前提としていないので、object viewよりも存在論に関して問題が少ない、ようにも見える。

パトナムの議論の最大の問題は、「そこまでやって、何を救ったことになるのかわからない」ということである。大体、物理的空間って何だよ*2。開き直りじゃないか。それに、グラフに翻訳したことによって、問題がどこまで簡単になったかもわからない。ある一つの問題があるやり方を、もう一つ別の問題があるやり方に変えただけではないのか(そしてそのことが果たして基礎付け主義に対する批判となるのか)という疑問は、読書会参加者が皆共有していた。
それから、はじめの方では「様相」を証明論的なもの(証明可能性 or Quine流の logical validity)として考えていたはずなのに、いつの間にかモデルの存在の話になってしまった。これは「集合論はモデルなしでは研究できない」という現実にパトナムが妥協しただけなのか、元々パトナムは統辞論的概念へのこだわりなんて持っていなかったのか。それとも(好意的に解釈すれば)最近のスウェーデンでの研究のように、集合のグラフ的扱いは、集合論への統辞論的アプローチを可能にする、とでも考えていたのか。
いやしかし、超コンパクト基数の大きさの具体グラフを、ぜひ一度拝んでみたいものです。

*1:I assume that there is nothing inconceivable about the idea of a physical space of arbitrarily high cardinality. p.20, 第二パラグラフ

*2:Parsonsがその点を突っ込んでいました。K氏情報:"Mathematics in Philosophy" p192. footnote