代数的意味論が哲学者に評判が悪いワケ

本日の読書会で話題になり、h師とK氏に指摘されたので。論理的体系の代数的意味論は、哲学者には評判が悪い。なぜだろう、という話。
代数的意味論で、例えば論理式 A の「意味」は(designated value の議論を引用して){ B : B→A の代数的な値が 1} という文 Bの集合によって定まる。自然言語の意味に関して、一種の文脈依存的な真理を表現しており、その意味で「自然」な表現である。
しかし、この解釈では、文Aの意味はすべて他の文との関係で定まることになる(その意味で、文の意味の確定は、全ての他の文の理解を前提とする、と言っていいのかもしれない)。これはフレーゲの文脈原理「文の意味は、その部分の理解を積み重ねることによって得られる」に違反している。この点でタルスキ意味論は非常によい性質を持っているし、可能世界意味論も各可能世界においてよい性質を持つ(ふつう各可能世界はタルスキ意味論だし)ので評価できる。また、もちろん言語理解において、完全性等はあまり重要な要素ではない(もちろん数学的には重要だけど、言語の意味の理論では完全である必要はない)。だから、例えば直観主義について論じるとき、ハイティング代数について積極的に論じる必要はない。
もちろん、論理学者からすると、非常に不満が残る話ではあるけれど。特に完全性という重要な現象に関する温度差の激しさを強く感じる。