意味論的不完全性と証明論的不完全性

10月22日付けのエントリにつきまして、Teoさんからご質問をいただきました。ありがとうございます。長くなりそうなのでこちらで回答させていただきたいと思います。

(i)論理と理論の違いとは?

確かにこの両者には「主観的」には全然異なるものですが、その違いをきちんと数学的に区別出来るものでしょうか?
多値論理などは、グリシン論理上の理論とも言えるのではないのでしょうか?
もしこの区別が「主観的」でしかないのでしたら、ゲーデルの完全性定理は論理に対するもの、不完全性定理は理論に対するもの、という区別も「主観的」なものに過ぎないのではないでしょうか?

えーと、個別のケースについて、いつでも確定的に両者を区別できる訳ではない、というのは本当です。例えば包括原理についてですが、論理規則(「抽象化ルール」)として論理の一部とするのか、集合論の公理図式として理論の一部とするのかを巡って、未だに論争の対象です。高階論理についても、クワインが「あれは実質的には集合論であり、論理ではなく理論だ」と非難したのも有名な話です。
しかし大枠としては、両者の区別は揺るぎないと思います。まず、両者の区別は数学の問題ではありません。哲学の問題だと思います。「論理」とは、我々が正しい推論(reasoning)だと見なす推論の集まりです。もちろん古典論理の場合と多値論理の場合では、どの推論を正しい推論と見なすかには大きな違いがあります。それでも「正しい推論」のクラスが最初に与えられます。数学は、それからその正しい推論のクラスに相当するような公理系を構成する役割を果たします。
理論は、理論=論理+非論理的公理 であり、「正しい推論」とは見なされない前提を論理に付け足すことで構成されます。ですので、理論と論理の区別は、灰色領域はあるものの、我々が「正しい推論とは何か」ということに関して前もって持っている考え方によって正当化されます。この区別は、論理体系の構築の際の出発点であり、前提であって、決して結論として導きだされるものではないと思います。

(ii)論理の完全性と理論の完全性の違い

論理の完全性といえば所謂「意味論的」完全性で、理論の完全性といえば所謂「証明論的」完全性だ、というのはそんな確定的なことなのでしょうか?
仮に業界の内部で確定しているにしても、他分野の人が一般向けに書いた文章の中にある「論理の完全性」が所謂「意味論的完全性」を指していると決めつける根拠があるようには見えないのですが、どうしてそのように決めつけられるのでしょうか?

えーと、例えばシェーンフィールドは完全性定理の意味の完全性について、論理ではなく理論が完全だという言い方で定義を与えています。その意味で定義次第、という面はあります。しかし、どんな場合でも

完全性定理の意味の完全性と、不完全性定理の意味での(証明論的)完全性の区別は、どんな場合でも強調されるべき区別であり、全ての基本である。

という点は強調されるべきだと思います。この両者の区別は確定的だと言ってかまわないと思います。また、「論理の完全性」という場合、不完全性定理の意味の完全性ではあり得ません。古典論理上には完全な体系もたくさんあるからです。
もし、Teoさんが「完全性の区別とか言う以前に、小林氏は単に完全性という言葉に複数の意味があることすら知らなかったのではないか」と主張されるのであれば、賛成せざるをえないかもしれません。しかし、もし小林氏はあのような記事を書く以上、両者の違いを知っているべきだったと思います(新聞紙上で経済を論じる論者がインフレとデフレの違いを知っているべきであるのと同じ理由です)。また、あのような記事を書く以上、両者の区別を知らないのであれば、そのことを非難されてしかるべきでしょう。

(iii)ゲーデル不完全性定理の意味論的意義はないのか?

ytbさんの説明では、ゲーデル不完全性定理は意味論抜きに記述とか説明が出来るというだけで、それを意味論的に見直してはいけないという理由はないように思えます。ゲーデル不完全性定理が、意味論的見方を(必要としないだけではなく)排除する理由はなんでしょうか?
実際、不完全性定理は、より強い理論(ZFCなど)の中で真となる文が証明できないことを意味しており、そういう意味での(意味論的な)不完全性を主張しているとみなせますし、
このような意味論的な捉え直しは「無矛盾性の強さには階層がある」という重要な事実を導くのに非常に重要なのではないでしょうか?』

私は不完全性定理が意味論的に重要な役割を果たすことを否定するものではありません。もちろん不完全性定理にはモデル論的証明(Boolos/Kikuchi/Kripke)がありますし、算術的階層やZFCの巨大基数論などにおいて大きな役割を果たします。非常に重要です。
しかし、ゲーデルの証明のポイントは、「意味論を持ち出さずとも、構文論的手段のみで証明できる」という点です。不完全性定理は意味論でも大きな役割を果たしますが、一方で意味論なしでも証明できるし、真理などの意味論的概念から中立であるという点が不完全性定理の大きな特徴の一つだ、と思います。真理と証明可能性の関係について考察する場合、不完全性定理は構文論的手段だけでも証明できる点を強調することは、Goldsteinのような間違いを防ぐという点で非常に大きな効果があるだろう、と期待されます。